演 目
アルフレントの泉
観劇日時/05.6.16
劇団/gah
作/テシロギヒロフミ
演出/モモセシュンスケ
演出助手/スズキショウコ
照明/オオハシハルナ
制作/カナヤマユイ
スチール/タカハシカツミ
劇場/ことにパトス


ゴドー待ち変奏曲

 小学校の教室二部屋分くらいのサイズにタッパ(天井高)の高いパトスの空間は、いつもの客席の椅子を取り払い平土間にして、下手奥から上手前まで対角線上に花道のように造った舞台を間にして、その両側で対面する三角形の客席から芝居を観ることになっている。
こういう舞台設営は初めて出会ったわけではない。今までに印象に残っているのは、十年ほど前『東京演劇アンサンブル』が、山田風太郎原作『幻燈辻馬車』を上演したときがこの方式を使った舞台だった。
このときの劇場は池袋の東京芸術劇場という500席ほどの中劇場だったが、客席の中央に本舞台から客席後方まで幅広い花道を造り、ここに本物の馬車が登場するなら物凄いことだと期待したが、さすがにそれはなく、実際は本来の客席の横壁面に大車輪の映像が走り抜け、観客は両側からそれを観るという仕掛けであったが、それで充分な迫力があった。
串田和美・演出の、サミエル・ベケット作『ゴドーを待ちながら』も同じような方法で上演された。だから登場人物が旅を歩くという設定の芝居には格好の方式であるのかもしれない。
そうなのだ、この芝居も当日パンフによると、「彼らが出かけるのは、留まることも進むことも必要ないからだ」という男二人(モモセシュンスケ・スズキリョウスケ=シアター・ラグ)と、「彼女らが届けるのは、あて先のない探し物を持っているからだ」という女三人(イマブチハルエ・ククミナトミグミ・ヤマモトナオ=tps)の二つのグループがそれぞれ交わったり離れたりしながら旅をいくわけだ。
花道式主舞台の一番奥には5b四方くらいで20a高くらいの平台が置かれ、その上には一枚の大きな扉が立ててある。その扉が手前の世界と奥の世界とを隔てているらしいのだが、その扉は決心さえすれば自由に開くことができる。だがその奥にもやっぱり何もない。それどころか扉の周りには壁もなく、一枚の扉だけがポツンと立っているだけなのだから、扉の両脇からだって自由に行き来できるのだ。何のための扉なのか? 自分の心の中に作った無駄な扉なのか?
開演前から5人の出演者たちは客席の末端に座っていて切っ掛けで登場する。初めは気になったが、おそらくこれは観客も登場人物と同じ位置にいるということを暗示したのであろうかと思うと、対面する形で向こう側にいる観客も、こちら側から観るとやっぱり登場人物なのだ。つまり登場人物は観客の中から観客の一人が立ち上がってくるというイメージなのだ。
軽快でナンセンスで脱力した、とぼけた演出・演技は気楽に不条理劇の古典的作品といわれる、「ゴドーを待ちながら」の変奏曲を感じさせた。