演 目
Ein Altes Haus(アイン アルテス ハウス)〜棲家〜
観劇日時/05.4.13
劇団名/Theater・ラグ・203
公演回数/Wednesday Theater V0l.15
作・演出/村松幹男
音楽/今井大蛇丸
音響オペ/瀬戸睦代
照明オペ/鈴木亮介
劇場/ラグリグラ劇場


複雑な人間関係の表わすもの

 冒頭、暗闇の中で電話のベルの着信音が鳴る。レトロな感じの音だ。しばらく鳴り止まない。
下手奥にうっすらと明かりが入ると、古いダイアル式の黒い電話機が微かに浮かび上がり、やがてベルが鳴り止むとゆっくりと闇に消える。
この冒頭部がしびれるように素晴らしい。何が起こるのかという期待に熱くなる。
静かにゆっくりと明るくなると、舞台は没落した資産家らしい家の居間だ。しかしこの舞台装置は零落したとはいえど、かつての資産家らしい面影はない。わずかに凝った造りのマントルピースの火が微かにそれを偲ばせる程度……そもそもラグリグラ劇場の舞台に、格式のある落ちぶれたとはいえども旧家の雰囲気を再現するのは無理なのかもしれない。
それも含めて、なぜこの時代設定にしたのか疑問のあるところだが、それについては後に述べる。
話は込み入っているが要点はそれほど難解ではない。その資産家一家と、仕える執事一家とのどろどろした人間関係の悲劇だ。己の欲望によって混乱させた血縁関係の巻き起こした悲劇だ。それがどういう結果を招いたか? つまり一族全滅だろう。それはこの2家族の悲劇に止まらず、人間の欲望の限界を自覚しない限り永遠に起こりうる人間の存在の哀しさとでもいうのであろうか?
この資産家に残された三人姉妹と忠実な執事の四人が起こす一夜の顛末と見えながら、実はこの三姉妹は、この執事(=平井伸之)の脳裏に蘇ったおぞましい思い出であったのかもしれないということが最後に暗示される。
長女(=ゆみこ)は発狂寸前であり、次女(=伊藤千絵)は我が乳児を溺愛し、三女(=坂井秋絵)は臨月の腹を愛撫する。しかし三人とも生活感がない。その時点でこの乳児は、次女が妄想するだけの実は人形ではないかと思えるし、実際舞台では本物の乳児ではなく当然人形を使っていたし、三女も実は想像妊娠ではないかと思って観ていた。
そしてラストのドンデン返し、この三人はおそらく執事の男の思い出であり三人は亡霊であったのだ。最後は誰も居ない舞台の背景が透けると、その三人姉妹、幸せだったころの両親、そして三人が共に愛した異母兄の二人が、一瞬浮かび上がる。欲を言えばその少し前に一人の男の姿が同じように背景に透けて見えたが、これはない方がラストの印象が強かったように思う。
さらに最後に、執事が一人残った未明の部屋で、また電話が鳴る。受話器をとった執事は、この屋敷の買い手と最後の交渉をする。つまりここですべては幻の一場だったことが分かるわけだが、この大事な場面が執事の男の一人芝居だったのが惜しまれる。できればここももっと別な演劇的な推移が欲しかった。
だがここでトップシーンの電話の呼び出し音に繋がるわけで、さまざまな伏線が巧く機能して収斂していく。
時代設定が僕の感覚だと、昭和初期。古川厚子の感想だと、このオドロオドロしい人間関係はあの時代だからリアリティがあるという意見だが、僕は逆に、この乾いた人間関係にある現代に、この複雑怪奇な関係を持ち込むことで、むしろ浮き上がるものが表現できるのではないかと思う。どんな時代にでも、この自己欲のドロドロした関係は、たとえば国対国でも集団対集団にでも、およそ人間の存在する場面に必ず存在する関係だと思うからだ。だからこの芝居は二家族の不条理なあり方を描きながら実は社会や国家の表裏を象徴しているともいえるのだ。
ラストでまた電話が鳴って、執事が受話器をとったのに呼び出し音が止まらずそのまま二回ほど鳴り続けたとき、執事は平然と待機していたことがこの芝居をホラーっぽくした。だからこの受話器を取り上げても呼び出し音が止まらないのは、異界からの通信かなと思って身構えたほどだから、後で音響の操作ミスと知っても、このミスはむしろ効果的であったとさえ思ったのであった。
長女が狂気の兆しを表わすシーンは『風琴工房』の『深き紅爪』(03年1月)を思い出させて、背筋に寒気を覚えた。これが演劇の臨場感だと深く感じ入る。