映画 ミツバチのささやき
 鑑賞日時/18.3.28 14:00~15:40  スペイン映画・ELIAS QUEREJETA P.C.  監督・原案/ビクトル・エリセ  脚本/アンヘル・フェルナンデス=サントス  ビクトル・エリセ  出演/アナ=アナ・トレント  姉イサベル=イサベル・テリェリア  父フェルナンド=フェルナンド・フェルナン・ゴメス  母テレサ=テレサ・ヒンベラ
 会場名/アートホール名画鑑賞会

新鮮な受け取りかたができた

 

 この映画は以前に何度か観ている。かつて観た時の感想や、いろんな人たちの評を予め読んで行ったのだが今日観た感じでは、そんなややこしい理屈や解説は吹っ飛んでしまった。そこで今日の新鮮な感想を改めて箇条書きに紹介しよう。
 まず、タイトルバックに何枚もの児童画が次々に映し出される。そしてそのBGMが奇妙で現実感がないのに何故か暖かい感じの曲想……
 自分の視力が弱いので字幕が読めず、一生懸命に読もうとしているうちにパッと消えてしまう。でも、懐かしいような既視感のあるシーンが次々と展開する。
 フランケンシュタインとは何者か? 自他ともに認める疎外者ではないのか?
 鄙びた美しい風景の中の姉妹や両親や、点景のような人々の何気ない日常の心情が静かに流れるような感じだった。
 ちなみに09年3月の感想記を次に引用する。(『続・観劇片々』第24号より)
      ☆
静謐の中のメタファーとアレゴリィ
 1940年のスペイン北部の農村。内戦が終わってまだ政治的には混乱の時代だが、戦火の跡を残しながらも静かで寂しさを感じさせながらも、一種の美しさを表わす風景。
 6歳の少女・アナとその姉・イサベルの日常が、抒情詩のようにほとんど台詞もなく劇的な展開もなく描かれる。
 それは川本三郎の解説に、本田和子『異文化としての子ども』の中の「七歳までは神のうち」という引用がある通り、少女・アナの観た世界の表現であると言えよう。
 正にアンニュイな、だが美しい風景の中での子どもの感性が、小さなエピソードを重ねて、ゆっくりと流れて行く。だが決して退屈はしない。つぎつぎと現れる小さな事件は、孤立しているようで連結しているようで飽きない。大人の世界もチラチラと描かれるが、アナには見えないのだ。
 だが僕は、この様々なエピソードが当時のスペインの、さらにはすべての世界の現実のメタファーでありアレゴリィの要素があるのを感じた。
 例えば、タイトルの『ミツバチのささやき』は原題が『ミツバチの巣箱の精霊』であり、それは「神のうち」としての子どもという意味であろうが、僕には監視され統制されている民衆の象徴と見え、巣箱をガラス張りにするというのも暗示的だ。
 轟音と共に近づく列車に異世界からの訪れや過去から現在そして未来の象徴であると同時に、僕にはファシズムの襲来とも感じられる。
 列車から飛び降りて脱走する兵士は、少女アナにとって新しい世界への窓口だが、かなり直裁的な体制批判が強く感じられる。
フランケンシュタインも、アナにとっては同じ精神構造の仲間かもしれないが、やはり文明進化の極限としての矛盾物体であり、結果的には政治的な暴力装置のメタファーとしての役割もあるような気がする。
 僕はこのフランケンシュタインの場面で、宮澤賢治の『風の又三郎』の中、9月4日のシーンで脱柵した放牧馬を追って森の中を追う嘉助が一瞬に見た、異界からの使者である又三郎の幻影を思い出した。何かそういう神秘な感性を感じたのであった。
 そういう感性に彩られた鄙の風景が、6歳の少女の感性で切り取られ、裏側に社会的なメッセージの隠された一編の抒情詩であった。