後 記

甘美にしてクール 『24番地の桜の園』            11月22日
 チエホフ『櫻の園』を串田和美・演出で、今渋谷・コクーンで上演中だ。朝日新聞の劇評コラムは良く読んでいるが、今日のこの山本健一さんの紹介文はとても魅力的だった。
 一言で言い表せないのだが、「大胆に改定した。甘美にしてクール。カーニバルの陶酔感。物語の断片化。原作のカット・入れ替え・チエホフの小説を挿入して完璧に均整美のとれた原作のロマンを冷やす。苦い小説『創立記念日』を挿入する遊び心。」 その他などなど、いわゆる演劇のバロック表現だろうと思われ、最近その手の舞台が多いような気がするけど、これは本物だと感じられる。以下詳しく書かれているのだが、読めば読むほど、俄然、観たくなる。最近は体力の限界でなかなか東京まで観劇に行く元気は無いんだけれども久しぶりに大きな魅力を感じたのだった。

語句の意味                         12月20日
 「演劇」と「芝居」、「戯曲」と「台本」、「俳優」と「役者」、「芸術」と「エンタメ」。僕はこの四つの似たような熟語をわりと厳密に意識して区別して使おうとしている。
 「演劇」とは「戯曲」を「俳優」によって表現される「芸術」であり、「芝居」とは「台本」を「役者」によって演じる「エンターテインメント」である、という風に……
 それはその語句の成り立ちから考えて当然のことだと思うからだ。分かり易いのは「芝居」で、「芝居」とは野外の芝生の上に居て「エンターテインメント」を享楽したのが語源だからだ。
 ところが現行の様々な国語辞典を調べても、「演劇」と「芝居」、「戯曲」と「台本」、「俳優」と「役者」、の三つは、それぞれ語源は違っても現在では、ほとんど同じ語釈なのである。その中で「芸術(鑑賞的価値を創出する)」と「エンターテインメント(娯楽・演芸)」とは区別しやすい。(括弧内は『広辞苑』より要約)
 ところが現在では一般的には全ての舞台作品を「芝居」と称し、全ての出演者を「役者」と通称するのが現在の言葉使いのようだ。
 僕自身も何気なく「演劇」のことを、「あの芝居は良かった」「この芝居を観たい」、そして「俳優」のことを「あの役者は演技力がある」など、特に「演劇」は普通の会話では使わなくなって無意識に「芝居」を使ってしまうのだ。言葉は生きもので時代と共に変化するのだと思われる。

最近の舞台の特徴
                      12月20日
 この59号を読み返してみると、多くの舞台に共通する特徴があるような気がした。それは、時間や状況や人物が、一定の範囲に留まらないでドンドン変化・移動することだ。だから物語が中々判然としないというか混乱するのだ。
 僕は物語至上主義だから混乱すると苛立つ。ただ混乱しても魅力が強い作品もあることはある。でもどうしてこんなにも混乱させるのだろうか? それが現代の舞台作品の創造原理なのだろうか? 一種の流行現象なのだろうか?

生と死の問題も                       12月20日
 この問題も最近の舞台作品の一つの特徴であろうか? 生と死を考えるのは生きている人間としては極めて当然のことではあるのだが、最近なぜか、この問題に拘る舞台が増えたような気がする。それだけ追い詰められた状況なのだろうか? それとも僕自身が現実的に死に直面しているから、そういう受け取り方をしているのだろうか?
 いずれにしても、やっぱり気になるテーマとして多く現存するのを強く感じられるのだ。

評論と批評                          1月3日  
 今朝の道新に、平田オリザ氏との対談で斎藤美奈子さんが、「書評は人のために書く。自分がどう感じるか以前に、それがどんな本なのかが大事である。」と発言していた。  
 僕が劇評を書くのは、「人に読んでもらうというよりは自分がどう感じどう考えるのか。後で読んで何度も復習することである。」と、いつもいろんなところで宣言してきた言葉をすぐに思い出した。
 つまり斎藤美奈子さんの説は、僕の考える「評論」であり、僕の考えは僕の規定する「批評」だと思うのだ。
 「評論」とは、「過去の多くの批評や将来に出てくるだろう多くの批評を系統的に構築してその対照作品を位置づける作業」であり、それに対して「批評」とは、「その作品自体が現在の自分にどういう影響があったのかを表現する作業」だと思うのだ。
 ただ、どんな辞典や辞書を見ても「評論」と「批評」とは同じ語釈が書いてあるので、この解釈はあくまでも僕自身の思いだけなのだが。