真っ暗な舞台中央に薄っすらと微かにスポットライトが当たると、椅子に座って深く項垂れていた男(=向井章人)が、静かに身体を起こし周りを見回してゆっくりと立ち上がって次第に全身を動かし始める。それは普通の動き方ではなく極端に柔軟でしかも激しい動きだ。それは眼を覚ました男が日常へ向かう始まりの動作とも見えるし、悩み苦しんでいた男が何かに立ち向かおうとする姿勢とも見える。
その踊りが暫く続いて一旦退場すると、入れ替わりに立川佳吾と飛世早哉香のカップルが現われてやはり向井と同じく、目醒めなのか、混迷からの脱出なのかのようなペアダンスが動き出す。
突然、女が現在の不安定な精神状況と未来に対する見通しの不明を語り出す。それに対して男は、とにかく歩き出せ、未来は行ってみないと分からないなどと積極性を説き立てる。
踊りながらこの問答を延々と続ける、というよりもこのペアダンスを説明するかのような問答だから、同じことが続くと次は何と返事をするのかがおよそ見当がついてしまう。事実、その答えは「明るい」とか「一歩前進」とか「ともかく出る」などと僕が反応した答えがほとんど当たっているのだ。苦笑しながら観ていた。
やがて次に本田大河と下村美緒の男女のカップルが、この先輩カップルを模して踊るのだが、この名前を見てすぐ思い出した。それは16年1月「コンカリーニョ」で上演された『踊りに行くぜ Ⅱ』で上演された『人生』だ。20分のこのパーソナルダンスを構成・振付・出演したのが、この本田大河だった。その感想が次の文だ。
『続・観劇片々52号』所載。そして4本上演された全部の感想の文末に書いた一文も追加する。
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音も照明も全く何もない裸舞台で若い男が一人、鋭く踊る。後半に入って上手前面の1/3程に張られたスクーリンを利用。音楽が入ってスクーリンに映るシルエットを多用する。そして最後にこのスクーリンを引き裂く。
思春期の男子の様々で複雑な感情をストレートに我が肉体を通して表現した、素直で直線的な感動である。
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今日の4つの演目の中で素直に感動できたのは『人性』だけであった。
僕が最初にコンテンポラリイ・ダンスに魅入られたのは、03年2月に観た、「シアター・ラグ・203」の『Die Puppen Spiele 』だと思う。この劇中の福村まりのダンスに圧倒され、この芝居は福村まりの、このダンスがあって創られたのじゃないかとさえ思ったほどだった。抽象的な動きなのにとても具体的な心情が強く、観る者の心に深く食い入る。そしてその後の福村の『マリナイト』をはじめとする沢山のダンス公演に魅入られたのだった。
「風蝕異人街」で上演されるいろんな劇中で踊られるダンスも暗黒舞踏系統の地底からのうめき声のような素朴な衝撃を受けた。
そして極め付きは07年8月に観た工藤丈輝の『業曝』だった。「業」とは何か?「曝」とはどういう事か? それがダンスという表現で強烈に訴えた。
この三つの舞台が僕にとってのコンテンポラリイ・ダンスの原点だったが、今日の舞台は『人性』以外にはそれが感じられなく観念的にパターン化されて綺麗に作られた体技だけだったのだ。
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そして今日の『錯乱する景色』の中の本田大河のダンスは、この先輩二人のコピーのようで余りインパクトは無い。ともかく終始、この錯乱する心情を励ます心意気が言葉で繰り返されるだけで、しかもそれは説明的で理屈っぽく正直にいえば退屈する。
ラスト、正面奥に蹲る向井の頭上からフィラメントだけが赤く輝く大きなガラス球が降りてきて、向井はそれを大きく小さく揺らしながら闘う姿勢。フィラメントは輝いたり赤くなったりして踏み出せない向井を翻弄するような、あるいは未来と希望の象徴だろうか? そこだけが異常に強く印象に残った。 |