後 記

演技の二面性  9月5日

前号#57の『象じゃないのに……。』の記事中に―

・舞台で演技している時に、俳優は本来の自分の存在を常に意識した作り事なのか、自分を一切出さないで役の人物だけを純粋に生きるのかという、俳優とはどういう存在なのだろうかという疑問? その具体的な疑問は次のシーンから生じた。
・ラストで飼育員の妄想の中に出てくる象との会話のシーンで他の3人が呆然と眺めているのだが、そのときその3人は飼育員からはもちろん観客も無視しているからこの舞台には存在しない。ところが象が去る時に、その3人が象を見送るのはそこだけその3人が舞台に存在するのは矛盾だという指摘があった。だが僕は、それは観る人の自由な想像だと思われ、それが演劇だと思うのだ。

という記述があります。これは〝例〟にしたシーンが適例ではなかったのかも知れないで、もう一つ、別の〝例〟を紹介します。
朝日新聞8月30日の「折々のことば」(鷲田清一)に加藤剛の言葉で「僕ら役者は毎日舞台で躁鬱やっているようなもんだから、気楽にやんなさいよ」の言葉を説明して「……気分の浮き沈みも、自分とうまく折り合えないのも、人の常。一つの役を真面目に演じすぎないように……」と書いてありました。
これは精神の病気である役者に対する助言かも知れないが、役を演じる二つの側面を表現しているとも言えるのじゃないかと思われる。
それは前述の「俳優は本来の自分の存在を常に意識した作り事なのか、自分を一切出さないで役の人物だけを純粋に生きるのかという、俳優とはどういう存在なのだろうか」という僕の思いの一つの回答だと思われたので紹介します。

「大山デブコの犯罪」と「お祭りマンボ」 9月30日
『大山デブコの犯罪』を「風蝕異人街」の舞台で観てから、どうしても原作の戯曲が読みたくなったのだが簡単には手に入らない。ネットで調べると、『寺山修司の戯曲 2 』(思潮社)に収録されていることが分かった。それでやっと市立図書館を通じて道立図書館から借りる事が出来た。
そんなに長くはないから一気に読める。まず思ったのは、全体の雰囲気が「この世はお祭りの世界」という感じで、「欲望が全てを支配するが、それは政治の陰謀だろうか?」という感想だった。理屈っぽい言葉の繰り返しが多いのもそのイメージを強める。
それを読んでいるうちに突然、美空ひばりの『お祭りマンボ』という歌謡曲が口をついて出てきたのだ。
調べると原六朗・作詞作曲のこの曲が出来たのが1952年だから、僕が17歳の時に爆発的に大流行したわけだ。今でも殆んど全曲をそらで歌える。
『お祭りマンボ』も全曲、隣りのオジさんもそのまた隣のオバさんも、お祭り騒ぎが大好きで、お祭りに狂っているうちにオジさんは自宅を火事で焼かれ、オバさんは空き巣に入られ全財産を失う。
歌詞は「いくら泣いても後の祭りよ」で終わるわけだが、その後がまた賑やかなマンボのリズムで元の世界に戻ったようになる。
これって『大山デブコの犯罪』にとてもよく似ているのじゃないだろうか。65年前の『お祭りマンボ』とちょうど50年前に初演された『大山デブコの犯罪』が突然と一緒になって笑い踊らされている現代の世に蘇って来たのだった。

「芝居」の概念とは 9月30日
最近「劇」と「芝居」を別の表現方式として区別したり、その融合力を考えたりしている。その基本的な考え方は変わらないのだけれども、その僕自身が舞台表現そのものを、つい「芝居」と言ってしまうのだ。
例えば「あの芝居、良かったよ」とか「この芝居、観たいね」とかいうのだ。つまりそれくらい「芝居」という言葉は原意を離れて、舞台表現一般を言い現わす言葉になっているという事だろうかと思われる。
言葉は時代に従って意義は変化するのだ。