詩と劇に架橋する十三章
 観劇日時/17.7.16 13:00~14:00  劇団名/劇団・河  企画・構成・脚色/塔崎健二
 演出・照明/豊島勉 演出監修/星野由美子 衣装製作/佐藤智子  舞台監督/大沼利雄 制作/豊島誓子  宣伝美術/ナシノツブテ  舞台美術・衣装/菊地雅子
 劇場名/旭川CoCoDe(旭川市民活動交流センター)
 出演/
  吉増剛造「わが悪魔祓い」=星野由美子・細川泰稔・他全員  小熊秀雄「焼かれた魚」=柴田睦美   佐藤春夫「秋刀魚の歌」=げんき可奈   飯島耕一「他人の空」=乱間広   石原吉郎「葬式列車」=室谷宣久   田村隆一「再会」=伊東仁慈子
      (須田菜穂子が本番当日の急病で急遽代演)   鮎川信夫「繋船ホテルの朝の歌」=紅小路旭   金子光晴「しゃぼん玉の唄」=山本美姫   黒田喜夫「餓鬼草紙」=紅小路旭・亀井紳之介・室谷宣久・
            松岡歩・荒木脩   吉本隆明「涙が涸れる」=紅小路旭・亀井紳之介・室谷宣久・
             松岡歩・荒木脩

「劇」に架橋しない「詩」

「詩」とは〝ある事物について起こった感興や想像などを一種のリズムをもつ形式によって叙述したもの〟(広辞苑)であり、それに対して「劇」とは〝激しく強い事〟(広辞苑)であるが、僕は〝「劇」という文字は「虍」と「豕」そして「刂」で出来ている。つまり「虎」と「猪」という二大猛獣が「刀」で闘うという意味が込められている〟とも考えている。
一人芝居という表現形式があるが、僕は一人芝居に自分なりの三つのパターンを想定している。
①自分自身の心的内面を告白するだけのもので、これはドラマとは言えない。
 「詩」の朗読もこの範疇であろうか。
②自分の心情告白の中に相手の思いも想像させてドラマを立ち上がらせる。
③一人で複数の役を演じる。その典型が落語であろうと思っているのだが、この方法が 一人芝居で「劇」の葛藤を魅せる最大の方法だと思っている。
今回の舞台は ① の分類方法で創られているようだった。
小熊秀雄の童話『焼かれた魚』を縦筋に、それに絡めて上記9人の、戦後の混乱期から経済成長期の日本で、戦後思想の巨人とも言われた吉本隆明を始め、反骨と反権力・憂愁と幻想の詩人たちの作品が朗読される。
この童話も詩も、いずれも単なる〝朗読〟ではなく、これらの「詩」と「詩」や、「詩」と「童話」とが絡まってドラマとして立ち上ってくるのが、この舞台の目的であり最大の魅力であるはずだと思って観ていた。それが「詩と劇に架橋する」この舞台の存在価値だと思っていた。
だが実際の舞台は、それぞれの詩がそれぞれの俳優たちによって、その詩の内面である、それぞれの詩人のその時々の心境を強く大きく鋭く表現されていて、それはそれで、その心情発露のインパクトは強く大きかったとは思われるのだが、残念ながら期待した「ドラマ」は浮かび上がっては来なかった。
一人芝居の分類に関して今日、ちょっと面白い文章を読んだ。「舞台上にはおらぬはずの恋の相手の姿までそこに見えるよう」な演技である。これは吉田修一・作、朝日新聞連載小説の『国宝』#195( 17.7.20所載)の文中で、歌舞伎の女形役者が一人で「娘道成寺」を舞っている舞台を描いた文章なのだ。つまり今日の『劇団・河』の舞台の不足分を、この言葉がうまく説明していると思われた。この「娘道成寺」は恋のドラマが浮かび上がる ② の表現法だ。
折角、複数の俳優たちが演じるのだから、そこに葛藤というドラマを観たいのだ。一人芝居の ① は個人の内面的な心情や感動などを解説し説明し告白し、それを激しく盛り上げて表現しているだけなのだ。相手との具体的な心情と行動との交流としての葛藤が視えないのだ。だから「詩」が「劇」に架橋するとは、「詩」が「劇」にならなければこの舞台は演劇にはならない。
この表現法は日本の演劇界に革命的な斬新性を創出した、かの鈴木忠志の方法論に似ているような気がする。鈴木忠志のメソッドは「演劇的シチュエーションを内面心理のみならず身体感覚で裏付けること」と一般に言われているが「詩と劇に架橋する」ことの別の見方でもあるような気がする。
もっと分かり易くいうと深川市で『キルテングビー』の万代いづみさんが試行している『えほんがたり』とも共通点があるような気がする。これは絵本を黙読するのではなく、複数の俳優たちが役割を組んで絵本を読むと言うより演じるのだ。すると絵本が立ち上がって劇的な状況を創るのだ。これはまだ素朴だが、この三者には共通する根があるような気がする。共に演劇の一つの表現方法に向かっている可能性を感じるのだ。
今日の舞台は、歌舞伎の「娘道成寺」のような ② パターンまでもいっていなくて ① のパターンだから、「詩」と「劇」は架橋していなかったのだ。だからこの舞台は「劇団・河」の復活とは言い切れないのではないと思うのだ。