象じゃないのに……。  観劇日時/17.5.14 14:00~15:10  劇団名/札幌座  公演回数/第52回公演 2017春の新作
 原作/イ・ミギョン(「そうじゃないのに」韓国)  脚色・演出・音楽/斎藤歩  翻訳・ドラマトゥルグ/木村典子  舞台美術/高村由紀子  照明/熊倉英記  舞台監督/すがの公  大道具製作/尾崎要  小道具/吉田直子  衣装/原子千穂子   音響オペレーター/熊木志保  宣伝美術/若林瑞沙  制作/横山勝俊  プロデューサー/木村典子  制作協力/ダブルス  音楽制作/チユーバー=長尾保郎・ホルン=芹澤龍一郎  
 劇場名/シアターZOO

圧縮された人間関係の自己主張と齟齬と

札幌大通りで行われたイベントのパレードに出場した6頭の象が、何かに驚いて突然走りだし、その中の先頭の一頭が野外舞台で選挙演説中の知事候補をなぎ倒し大怪我を負わせた。その飼育担当責任者(=川崎勇人)は、過失致傷容疑で逮捕留置されている。
精神鑑定医(=山野久治)は、容疑者の供述から悪意のない性倒錯病患者と推定する。そして検察庁本部の刑事(=斎藤歩)は、選挙事情を勘案し様々な状況証拠から、テロ行為の疑いがあると責める。
見舞いに来た同僚(=佐藤健一)は日頃の勤務状況を話すが、それは容疑者にとっては不利な話だが供述が曖昧で、この役柄の設定がはっきりとせず印象が薄いので存在感がない。損な役割だと思う。
面会に来た母親(=原子千穂子)は、この子は幼い頃から飼っている小動物は何でも放してしまう子だったとその資質を語る。
容疑者の幻想に現れた当の象(=佐藤健一)ば、飼育員と心が通じ合っているから互いに束縛を逃れたい一心だったと語る。
5人5様の意識の相違はどれもが本当なのか、何かが意図されたものなのか、人間関係と社会の在り様が象徴された1時間少々に圧縮されていた。
容疑者は自覚のない迷路に落ち込むのだが、川崎勇人はその混乱を自然にリアルに演じ、一方で他の人たちとの話し合いでは整然と泰然と演じて好演だった。

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気になったことを少々。
・選挙事情と中央政界、地方政界の具体的な現実を余りにも直接的に話しすぎるような気がする。もちろん仮名は使っているのだが、それと分かる仮名であることが気になる。リアル感を現わそうとしたのだろうが、逆に嘘っぽい気がする。
・刑事と母親が強烈に戯画化され誇張された表現がリアリティを失いかねないと気になるが、逆にそのことによって話の核心が大きく浮き上がるという二面性があるのだろうか? その際どい狭間の表現か?
・舞台で演技している時に、俳優は本来の自分の存在を常に意識した作り事なのか、自分を一切出さないで役の人物だけを純粋に生きるのかという、俳優とはどういう存在なのだろうかという疑問? その具体的な疑問は次のシーンから生じた。
・ラストで飼育員の妄想の中に出てくる象との会話のシーンで他の3人が呆然と眺めているのだが、そのときその3人は飼育員からはもちろん観客からも無視されているから存在は無のはずだ。ところが象が去る時に、その3人が象を見送るのはそこだけその3人が舞台に存在するのは矛盾だという指摘があった。だが僕は、それは観る人の自由な想像だと思われ、それが演劇だと思うのだ。

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この舞台、閉鎖された特殊な空間に限定された、ある一定の時間内に、特定された人物たちの関係を描写するということでは、かの『亀、もしくは……。』と、とても良く似ていると思う。この『象じゃないのに……。』とタイトルも似ているし、どちらも斎藤歩さんの作品だと思うと、何か共通点が窺われるような気がする。
この『象じゃないのに……。』も、『亀、もしくは……。』と同じように再演、再々演と年数を掛けて練り上げて出来上がって行く過程を観てみたと強く思う。