北緯43°のワーニャ   観劇日時/17.2.4  18:00~19:40 二回目の観劇/17.2.8  14:00~15:40 三回目の観劇/17.2.12  14:00~15:40 劇団名/札幌座    公演形態/札幌演劇シーズン2017―冬 参加作品 作/アントン・チェーホフ  翻訳/神西清  脚色・演出・音楽/斎藤歩 演出助手/櫻井幸絵    舞台美術/斎藤歩   舞台監督/佐藤健一    照明/熊倉英記    衣装/宮田圭子 大道具製作/札幌座    音響オペレーター/熊木志保 小道具/山本菜穂     字幕オペレーター/市川薫 宣伝美術/若林瑞沙    制作/横山勝俊 プロデューサー/木村典子 劇場名/シアターZOO 出演/  医者・アーストロフ=増澤ノゾム   老教授・セレブリャコーフ=山野久治 老教授の後妻・エレーナ=西田薫   老教授の娘・ソーニャ=高子未来 老教授の亡妻の兄・ワーニャ=斎藤歩 兄妹の母・マリヤ=金澤碧 近所の地主・テレーギン=すがの公  乳母・マリーナ=中村かんこ 下男=佐藤健一

100年経っても、どこの土地でも人間の心情は同じだった

北緯43°は札幌の緯度だそうだ。だからあえて北緯43°と銘打ったからには、この舞台は札幌の現実生活を表現しようとした意図があるのだろうと思っていた。でも舞台装置はヨーロッパの田舎風だし中央のテーブルには大きなサモワールがデンと置かれている。どうして北緯43°というタイトルを付けたのか不審だったが、観ていると百年前のロシアも現在の札幌も人間の関係性なんてそんなに変わらないのだから、この登場人物たちは現在の札幌の人たちの心情でもあるのだろうと思えた。
どうしょうもない人間関係の中での義理人情が人間の弱さを克明に刻みあげた戯曲の意図に改めて強い共感とインパクトを受けた。これはまさに落語に通じる喜劇であろうか。
100年前のロシアの作家が現代にも通じる人間の弱さを業として笑って許すのは、落語家立川談志の「落語は業の肯定」という定義に当てはまる。
舞台背景にアフリカ大陸の地図が掲げられていたのを始めは理由がちょっと分からなかったが、ラストに近くソーニャが「暖かい土地が憧れだ」と言ったので成程と共感できた。
そしてワーニャに向かって言うラストのソーニャの台詞―
「仕方ないわ。生きていかなくちゃ…。長い長い昼と夜をどこまでも生きていきましょう。そしていつかその時が来たら、おとなしく死んでいきましょう。あちらの世界に行ったら、苦しかったこと、泣いたこと、つらかったことを神様に申し上げましょう。そうしたら神様はわたしたちを憐れんで下さって、その時こそ明るく、美しい暮らしができるんだわ。そしてわたしたち、ほっと一息つけるのよ。わたし、信じてるの。おじさん、泣いてるのね。でももう少しよ。わたしたち一息つけるんだわ…」
 これは、諦めと希望との裏表が人生だよと言っているようだ。これが時代と場所に共通する人間の哀しくも切なく嬉しい真実なのだろう。それを客観的に観ると喜劇になるのだ。

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二回目である中日の観劇では特に変わった点は感じられなかった。今日はちょっと普段のZOOでは経験の出来ない状況があった。それは何故か今日の客席は高齢の女性が多かったことだ。
それ自体は大いに歓迎されるべき事象だと思うが何しろZOOの客席前の通路などは狭くて通れないくらいだ。そして開演前はとても薄暗くパンフレットも読み難い。
僕の席の右手3人目くらいに座っていた高齢女性がトイレから帰ってきて、僕の前を通ろうとしたとき足が縺れて僕の眼の前で狭い通路に倒れ込んだ。わずかな段差に躓いたのだ。両足が絡んで狭いし身動きが取れず立ち上がれない。周りの人たちが大慌てで抱き起したが、ちょっと間違えれば大怪我をしかねない。
開演後しばらくして気が付くと僕の右隣のこれもやはり高齢女性が深々と前倒れの姿勢で熟睡していた。演目の選定を間違ったのだろうか?
こういう事例を目前にすると、このZOOの在り方にも一考を要する時代になったのかなあと思われる。

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医師のアーストロフが自然破壊の惨状を嘆くシーンがあるが、今日の新聞のエッセイで家具職人の長原實さんという方が〝自然と文明の矛盾〟という文脈で「木の生長を追い越してはいけない」と書いていた。百年以上たっても、ロシアでも日本でも同じことが言われているのだ。

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三日目の今日の観劇では、基本的には何も変わってはいないのだが、雰囲気というか舞台の存在感が違っていたように感じた。
開演の1時間ほど前に劇場の前で喫煙していた演出でワーニャを演じている斎藤歩さんにお会いしたら斎藤さんは、「毎回々、全く同じに演じているよ」と言っていて、それは正しくその通りだとは思うけど、観客である僕の受け取り方は微妙に違って、それは勝手に僕がそう思い込んだのかもしれない。
初日、誠実にきちんと緊迫感をもって演じられていて、観ている方も清新な感覚で受け取られた。
中日、一つ一つを確認しているような、良く言えば手堅く、悪く言えば慣れてしまったような気もする。
楽日、じっくりと重厚に感性を目指して展開が進められていて、観ている方も充実感をもてた。
こう書いてみると、これは僕という一人の観客が逆に舞台をそのような先入観で観てしまったような気もする。創る方は斎藤歩さんがおっしゃるように「同じ」なのかもしれない。

文学・美術などは同じ作品を何度も何度も観たり聴いたりするわけだけど、一回勝負の演劇や音楽などの時間的表現作品と、どこが違うのだろうか。