03年8月にこの初演を観ている。その時の観劇記をそのまま再掲する。
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高校生の時に交通事故で植物人間になって十年目の女性の病室。両親はこの娘を、人間と植物の間の存在として、娘は「果実」であると思いたい。
娘が死ぬ直前に、学校祭で上演しようと稽古をしていた「ロミオとジュリエット」の相手役でいまや売れっ子のシナリオライターの男を強引に連れてきて、架空の恋人役を演じてもらう。これは娘の想い出というよりも両親の自分たちの自己満足の仕掛けだ。
不承不承、両親のお芝居に付き合う男だが、そのうちに意識のないはずの女の声が聞こえてくる。その声は文字スライドとしてホリゾントに映し出される。
父親は、このお芝居を終わらせて娘の臓器を生体移植させることによって、命を永らえさせようとする。そのとき男は偽りの愛から真実の愛に目覚めて、臓器の移植に反対する。しかしそのとき女は心の声を発しなかった。
臓器移植のプロパガンダ的な要素も感じられる部分も多いけれども、全体に爽やかな純愛物語として気持ちの良い物語になっている。役者たちもメリハリの効いた訴求力の強い演技で好感のもてる舞台を創った。
全体の構成を、シナリオライターの告白としてのエピローグと二人の出会いのプロローグとを逆転していきなりエピローグのシーン、という風に凝った作りにして、洒落た設定に見合う役者たちの表現力に魅せられた芝居であった。
03年11月16日になってから、この話が片山恭一という作家の『世界の中心で、愛を叫ぶ』(10年1月刊、10万部発刊)という人気小説のストーリィに、余りにもそっくりなのに驚いた。
その小説自体は読んでないが、16日(日)の北海道新聞の書評欄によると「アキ(ヒロイン)は骨壷の中、という結末から始まる。学校の文化祭でロミオとジュリエットの共演、アキの白血病の発病、抽象的な純愛物語」(松井・要約)とある。
念のために、この公演のフライヤーと当日のパンフレットを確認したのだが、「眠る少女と純愛の男との物語はたくさんあるので、被らないか心配だ」という作者のコメントがあった。そう言えば、「白雪姫」も「ロミオとジュリエット」もそのパターンだ……
しかし余りにも似すぎている。これをどう考えるか? 脚色なのか? ストーリィだけを借りたのか? それとも単なる偶然なのか? 『続・観劇片々』第3号所載
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今度の舞台を観てまるで印象が違うので驚いた。この時の、この文章のタイトルが『洒落た純愛物語』なのだが、今回は単なる純愛物語を大きく超えている。
それは「生と死の真実」を見つめ直すという深刻な主題をアチャラカっぽい表現で迫っているのだ。それを象徴するのが、現実と幻想の中で困惑する脚本家・桃太郎の存在であろう。
観客自身も僕自身も、身内に杏のような存在があることを顧みると、「死」の真実に改めて思い返さざるを得ないのだ。それは自分自身の「死」にも当然帰ってくる思いなのだ。この年齢になると切実だ。
もしかして脚本に変更があったのか、終演後に作者の弦巻さんに聞いてみたら、脚本自体にはほとんど手直しは無いけれど演出は随分と変わっていると言われた。初演を観賞した当時の、僕の感覚の鈍いことを証明したような感じであった。 |