町に怪獣がやってきた

観劇日時/16.7.30 11:00~12:30
劇団名/ぐるーぷ えるむの森

脚本・演出/杉本明美  演出協力/鈴木喜三夫  
舞台監督/小助川俊幸
照明/鈴木静悟  音楽/Yukii・山川裕司  
演出助手/原田星子・仲野悦子
音響/杉本瑠美・沼本美和  
衣装・道具/沼本美和  衣装/浅利美樹子
道具/遠山洋魅  制作/氷河三・滝口眞寿美
イラスト/山田涼風
受付/杉本建・近川亜希・遠山藍・原田菜々子

劇場名/札幌 やまびこ座

悪意の共同幻想に対する強い意志の総意

 風光明媚で静かな山の中の小さな街に、突然、炎の怪獣(=杉本瑠美)が現れた。父のいない娘・エマ(=遠山洋魅)は母を亡くし祖母(=竹江維子)に育てられ、我が身の不運を嘆くだけだったのだが、この危機に出会った姿の見えない妖精・タムー(=原田星子)との言葉だけの交流によって何とか生きる元気を起こしていた。
 その妖精・タムーが風を起こすと炎の怪獣は退治された。だが怪獣は氷の怪獣(=桃野勁子)、パソホ怪獣(=杉本瑠美)、ストップ怪獣(=近川富美・神しのぶ)と次々とこの小さな街に襲い掛かる。
 つまり、この街の怪獣とは、人々の心の中から生まれ出た悪意の共同幻想であり、妖精とは、怪獣というそれらの悪意の塊をほぐしてゆく人々の強い意志の総意の象徴であろうか。
 こういう話の展開は幼児たちにはちょっと分かりずらいのではないかと思うが、怪獣が大暴れするシーンでは小学校低学年の子ども達は悲鳴を上げ泣き出す子もいる。この話の本意は判らないかもしれないが、この街の人たちの混乱と立ち直りの繰り返しに負けない力、二度も三度もの災難にも対応してゆく人たちに対する共感が、子供たちも一時間半の長丁場を食い入るように見つめている原動力であろうか。
 お母さんたちの劇団が、ママ友の交流や子ども達と遊ぶために演劇を道具に使っていることを否定はしない。でもこの「えるむの森」は、その段階を大きく超えている。いわば人間存在の社会的哲学的なテーマを小さな子ども達にも共感してもらい、僕たち大人にも再自覚させて大きな共感と感嘆を覚えさせる舞台を創っている。
 5年前に初めて観て衝撃を受けた『あらしの夜に』以来、一貫する「えるむの森」の大きな存在は期待を十二分に満たして頂けた。
 ただ原作にあると思われる沢山の脇筋の処理が必ずしもすっきりとはせず、注意深く観ていないと混乱して本質を見失う危険があるのではないかと、ちょっと気になった。

その他の出演者
ソフィ=中野悦子 イーダ=近川富美 マティアス=浅利美樹子 
サラ=瀧口眞寿美 町長=鈴木悠二朗 ハール博士=藤井達也
副町長=今野史尚 キャンディ屋=山田和子・仲野悦子
仮面屋=中野悦子 キャンドル屋=桃野勁子 お巡りさん=近川富美
その他、町の人たち=原田萌々子・白坂美琴・桜谷まりこ・中山しの・白坂由乃
          ☆
 その後、脚本のモチーフとなったと言われる、宮部みゆき『悲嘆の門』を読んだ。これはこれで面白い小説だが、この中に出てくる架空の絵本『ヨーレのクマー』がこの作品のモチーフのようだ。この小説はサイバーパトロール会社のアルバイトが幻想の世界に深まって行く物語だから、怪獣とはサイバー犯罪の事であろうと思われる。
 原作小説『悲嘆の門』の物語の基本は、ネット社会の中の幻想物語だから、普通の感覚では、というか僕の感覚では、どうにも嘘ッポクて着いて行けない。
 だがこの小説の文中、下巻p―60・l-20に書いてある、「この領域の人間たちの想像力に、他の領域の存在と接触したときの驚きや恐怖や畏怖の感情が加味されて、数多の異形のものどもを生み出してきたのだ」「存在するけれども実在しない場所」というネット社会の象徴を表す文章には納得させられる。
 だけどラストに来て、ああやっぱりそうなんだと納得できる決着なのだ。だけどもこの物語は直接には、今日の『町に怪獣がやってきた』とは結びつかない。この小説から、この舞台の脚本を創った感性が独特で凄い感覚なのだなと思われる。