花と鳥 舞踏という生き方
同時上映・映画  へそと原爆

観劇日時/16.7.16 19:00~20:20
主催/札幌国際舞踏フェステバル2017プレ企画

演出・出演/大野慶人
衣装/大野悦子・大野美加子 音響/国府田典明 照明/溝端俊夫

劇場名/ことに PATOS

18年前との再会

 コンテンポラリィ・ダンス黎明期のダンサー・大野一雄の子息である大野慶人の名前と存在とはずっと昔から知っていた。僕より3歳若いが眼の前に見る実人物はまさに老人である。そして僕は彼より年長である正真正銘の老人なのだ。さらに僕は大野慶人の父親である大野一雄の舞台も何度か観たことがあるのだ。
 でも何故か僕の記憶の中ではコンテンポラリィダンスと言えば、根源の一人として土方巽の印象が強く同時代の大野一雄は影が薄く、その息子である大野慶人は全く記憶になかった。そしてその後、田中泯を始めに何人かの若いダンサーたちから受けたインパクトは僕にとってとても大きい。それは何故だろうか?

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 大正ロマン風の基調音楽に異常な不安を煽るように被せた音響をバックに出てきた大野慶人は、何故か黒服の盛装で頭に異様な帽子のような被り物を乗っけている。緩慢だが力強い動きのはずなのにピタリと静止しない。さすがに老齢を感じる。立っている時に脚が屹立せずに微かに震えている。躓きそうになったりタタラを踏みそうになったりする。これは意識して演じているのだろうか? 僕には老齢による肉体的耐久力の衰えのように見える。
 次々と衣服を取り替え、最後には黒パンツだけになるが、そうなると益々肉体の衰えがはっきりとし、それを何とか克服しようとする大野慶人の凄まじさだけが強く感じられ、何を表現しようとするのか判然としない。
 1998年(今から18年前)11月10日に世田谷パブリックシアターで、大野一雄の舞踏公演『天道地道』を観ている。当時の大野一雄は91歳、その時に共演した大野慶人は59歳だが、僕は次のように書いている。

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 大野慶人の舞踊はパントマイムのような綺麗で流れるような様式的な踊りだが、なぜか弱々しい。全くなにも飾りのない裸舞台で、舞台裏の機械装置がむき出しで見えるから、それに拮抗するためには余程力強いインパクトがなければこの無機質には勝てない。(中略)大野一雄は、幼女のような、ひたすら無邪気にただ気の向くままに身体を動かしているようなダンスで、それが何ともいえず魅力的だ。
 SPレコードのかすれた音のピアフが歌うラビアンローズで踊る大野一雄が、すべてを超越した裸の人間のイノセンスの真髄を感じさせる。

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 その後ロビーで会った大野一雄フアンの友人に「やはり歳が歳だから、観られる中に観ておかないと」と言うと、彼は「大野一雄はよく観ているけれど、やはりだんだん年齢を感じるようになったから」と言っていた。
 この時の大野慶人の踊りのイメージと大野一雄の踊りのイメージの足した感じが今日の大野慶人だった気がする。

映画 『へそと原爆』    監督/細江英光 出演/土方巽・ 大野慶人 ほか

 太古の昔、神との約束を破り、禁断の木の実を食べた男アダムと女イヴ、神聖な誓いを破ったその瞬間、神の怒りにふれて、地球は最初の核爆発により全ての生き物は絶滅した。長い年月を経て、地球は再び蘇生し、平和が訪れ、鳥はさえずり、人の子らは海辺で戯れる。
 その時、子供らの楽園に一人の男が現れ、彼は触れてはならぬ子供のへそに触れた。へそこそ母親の胎内から繋がってきた生命の絆である。それはみだりに触れてはならぬもの、原子爆弾のボタンだ。子供のへそと核爆弾のボタンこそは絶対に触れてはならぬモノだ。核爆弾の歴史はわずか70年、生命の源であるへその緒は何十億年、人間のへその緒でも数億年、人間のへその緒は決して濫りに触れてはならぬモノ、命のふるさとだからだ。
 以上は映画『へそと原爆』のある解説文であり全ては書かれている通りだ。一つだけ気になったのは瀕死の鶏が断末魔の苦悶の踊りのようにバタめくが、恐らくこの映画の為に一羽の鶏を殺したのだろう。大事な映画のためとはいえ生きている鶏を苦しめ殺しても許されるのだろうか? 我々は毎日のように鶏を食べているのだが……

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 次に明るくなると大野慶人は貴婦人の姿で登場した。シャンソン風の明るい曲調で滑らかに踊る大野慶人は、先述した大野一雄のダンスで感じた「幼女のような、ひたすら無邪気にただ気の向くままに身体を動かしているようなダンスで、それが何ともいえず魅力的だ。」とまったく同じ感想であり、すべてを超越した裸の人間のイノセンスの真髄を感じさせた。そうか! タイトルが『花と鳥』なのであった。