アドルフヒットラー 日曜日の涙

観劇日時/16.5.7 14:00~15:40
劇団名/劇団コヨーテ

上演回数/カメイケンmonologue+dialogueその1
作/亀井健  演出/馬場杏輔  出演/亀井健

劇場名/Super nova studio

意余って力足らずのプロパガンダ

亀井健がヒットラーを自作・自演の一人芝居でやるという企画に大いに期待した。いったいどんな舞台が観られるのだろうか?
暴君の存在は、権力対市民のあり方であり独裁者へのアプローチの仕方が問題であり民衆が作り上げた偶像なのだから、選挙で戦えば良いだけの話なのだ。それが上手くいくという保証は全くないという事実は、世界の歴史が証明している、という事だろうか?
だが、この舞台で見せた、例えば屠殺場で働いたために肉が食えなくなった男など老若男女13人の市民たちの思いや行動が、ヒットラーと具体的にどう繋がるのかが判り難い。
画家になる夢を持ったり、状況に妥協的な生き方だった若いころのヒットラーが、どうして絶対的な権力者になったかを、この舞台で描いた市民たちとの思考と行動とが結び付かないと説得力が弱い。人物紹介表と解説文とを読みあわせながら観ていないと単なる観劇だけではピンと来にくい。
この13シーンを観て、ヒットラーを生み出した市民という意図は中々捉えづらく、意図は良いのだが、意余って言葉足らずの感じだ。
亀井健は13人のそれぞれの人物の特徴を上手く描いて印象的なのだが、人間対人間の葛藤になっていなくて、単にその人物の心情を述べるに過ぎないから折角の一人芝居が雰囲気描写にしかなってないのだ。これじゃ文章を読んで想像したほうが良い。演劇は人間対人間や人間対社会の葛藤を表現する事に強い関心があるのだから……
でも後になって気が付くと、特に現代の日本の若者のスマホ依存の日常を描いた1シーンが、こういう人々がヒットラーのような特殊な人物を生み出したのかもしれないということに気が付き、それは例えば現在でも金正恩とかドウテルテとかトランプとか、もしかして安倍晋三とかも視野に入っているのだろうかと考えてしまった。
そう思うと、この舞台は遠回しに現在の世界の政治状況を示唆した思想的な演劇という一種のプロパガンダだと言えるのかも知れない。上手く創ったプロパガンダかもしれないとも思える。
この舞台とは直接に関係はないが、元・アメリカ大統領のトルーマンが言ったといわれる「権力は人を酔わせる。酒に酔った者はいつか醒めるが、権力に酔った者は醒めることを知らない」という言葉を最近、知った。