螺鈿の宝石箱

観劇日時/15.9.16 20:00~21:15
劇団名/シアター・ラグ・203
公演回数/ウェンズデイ・シアター Vol.22(再演)

作・演出/村松幹男 音楽/今井大蛇丸
音響オペレーター/瀬戸睦代 照明オペレーター/平井伸之

劇場名/ラグリグラ劇場

演技者が変わってイメージが変わる

女性Aと女性Bだけの芝居、初演を観たとき、これはA・B二人の女性ではなく、女Bの心理の中に居る別人格の女Aとの葛藤の物語だと見た。だが次に観た時に、この芝居は女性Aの心情の中に居るBとの葛藤の物語ではないのか、と見て、そういう裏表の見方の出来る戯曲の魅力にとりこまれたのだ。
そして今日の舞台、そういう過去の衝撃とは違って、これはやっぱり二人の別々の人間に共通する、それぞれの人生に対する想いの物語なのかなと初心に戻って別の角度から見ることも出来ると思われた。
途中でBが今夜のデイナーに誘われているのに、その反応が鈍いのが前回よりも緩すぎると感じられ、それは台本の修正かなと思って観ていた。
それも含めて今日の舞台は結局、二人の別の人物であるそれぞれの女性の葛藤なんだと納得しかけたとき、停まった時計を横倒しにし、写したはずの写真にAが写っていないというシーンを観て、やはりこれは女Aの心象の表現だろうかと思う。
演者、今日のAは田中玲枝でBは湯澤美寿々だが、変わることによって印象が大きく違うことの魅力、同じ舞台を異なる配役で観ると違う内容のように感じるのに配役の記憶が無いというのは、演技者よりも演じた役の印象が強いからだと思うのだ。

二回目/15.9.23 20:00~21:15
データは第一回目と同じ

仮説の魅力を持つ物語

基本的に「シアター・ラグ・203」の舞台は何度観ても、その度に違う印象を受けるのだが、それは観客である僕の感受性の問題でもあるのかなとも思うが、他の舞台では余りそういうことは少ないのだ。そこに「シアター・ラグ・203」の大きな魅力があるとずっと思っていた。今度の『螺鈿の宝石箱』も、その期待を裏切らなかった。
初見ではA・B二人の女性の切ない想いは、実は一人の女性のウラオモテの感情を託した一人芝居の別途表現かなと思った。そして二回目の観劇では、これはやっぱり別々の二人の女性の葛藤かなと思った。それは別にどちらでも良いのだが、そう感じさせる独特の魅力に嵌る。
三回目の今日は、今までのそれらの過去のイメージを振り切って僕なりの仮説を立てて、その視点で観てみようと大胆不敵なプランを考えて客席に座った。この舞台がこの仮説にうまくマッチするのかという不遜でよこしまな気持ちで観ていた。
その仮説とは「この物語は女性二人の心象の展開だけれども、このA・Bの二人を現実社会の二つのある集団の存在の象徴だとするならば、それは一体、具体的にどういう何の集団だろうか?」ということだ。それは、どんな集団で具体的には何なのか?そしてその二人または一人の女性の心情とは、その集団にとっては、どういう意味があるのだろうか? ということだった。
ただ今日観た限りではその仮説は不毛だったがゼロではない。未定だったのだ。これから様々な具体性を探してみようかなと思っている。そういう別の深さを持った魅力ある舞台だったのだ。
開幕冒頭、暗闇の中で、女・Bが呟く、というよりは高らかに宣言するような独り言、「私は問う、事実とは何か? 何が事実なのか?」。でも、これは僕の記憶なのでこの台詞の細部は違っているかもしれないが、僕には、そう聞こえたのだ。
この第一声が意味するものが、僕の仮説を決定するかもしれないと思うと興味と関心は途切れないのだ。「事実と真実とは異なる」という意味も合わせ考えて……