+51 アビアシオン,サンバルボ

観劇日時/15.7.4. 17:00~18:25
劇団名/岡崎藝術座

作・演出・美術/神里雄大 音響/和田匡史 技術監督/寅川英司
舞台監督・照明オペレーション/秋野良太
台本翻訳/アガワアヤ 字幕制作/渡辺真帆
宣伝美術/古屋貴広 制作/松本花音
製作・主催/岡崎藝術座
主催/北海道演劇財団・NPO法人 札幌座くらぶ

劇場名/シアターZOO

世界を客観的に表現したのか?

タイトルはメキシコのある大都会の通りの名前だという。イメージとしては「東京・銀座」いう感じかも知れないが、舞台で観た印象では「東京・下北沢」とか「札幌・タヌキ小路」みたいな、もっと人いきれの匂いが強い。もちろん観た人それぞれの印象であろうが。
現代の演出家が夢をみる。昭和初期に日本の圧制を逃れてより良い住み場所を求めて世界を彷徨しメキシコに移住した佐野碩という演出家に出会うという夢だ。
現代の演出家とは、この舞台の作者であり演出家なのであろうが、その彼が実在の人物である佐野碩の足跡を再訪したのがこのタイトルの街なのだ。そしてその途中で出会ったもう一人が神内良一であり、彼・演出家は神内の意志の強さと、そのエネルギーに反応・共鳴して、さらに神内の足跡を辿るという構成になっている。
その中で作者のメッセージは、政治という現象は相手の思想を叩き潰すのではなくコミユニケーションを保つことだということにあるのだと思われる、と言っている。でもそれは作者が解説・説明しているだけであり、舞台はそうなってはいない。
主人公である現在の作者・演出家と佐野碩とは、それぞれ独立してそれぞれの想いと相手との関係とを独白しているだけで、全く二人の関係を演劇的に葛藤させて居るわけじゃない。後半に出てくる女性も意味不明で、たぶん神内良一を説明する立場なのかとは思うけどやはり彼女の勝手な独白だけなのだ。
出演者三人がそれぞれ自分の立場と自分の想いだけを延々と述べ、その想いとどんな関連があるのか分からない独特な身体の動きで表現する。確かにそのアクロバット的な身体行動は観ていてさすがだなとは思うけど、この人物の内面とどう繋がっているのかと不思議に思う。心情の感動を身体表現にどう転換したのだろうか?
雑音としか感じられない効果音や客席に向けて目潰しのような照明などはどんな意味があるのだろうか?
特に舞台上で勝手に読書をしたり舞台上での着替え、ラジオの意味不明の音声、エコーの掛ったマイクでの話、全編を通じて背景の黒幕に投影される英文の文字幕、文字幕自体は言葉の違う人たちにとっては必要不可欠の道具だが、この劇場でなぜ必要なのか、むしろ韓国語か中国語の方が要求度は高いのじゃないのか? 英語は世界語なのか? などと余計なことを考えていた。
それらの様々な夾雑物は、すべての現実の世の中を象徴しているのだろうかとも思うが、観ている時にはただの夾雑物としか感じられず、気を削がれるだけで鬱陶しく思い、それが作者の思うつぼだったのだろうか? それを考えさせたのであろうか? 作者の説明と一方的な挑戦だけのように感じて反撥のみが残る。