仕合わせへの出立
-『山がある。』の感想

細 川 泰 稔

1. はじめに
これは「演劇批評」ではない。『山がある。』(作・演出 村松幹男)の初演(2015年6月10日)を観た「私的感想」である。
「そこに山があるから登る」という若い女(山ガール)と男(山ボーイ)が登山の途中に出会って仲良くなる。山での災害と爆弾の苦境から脱して、いかに2人の恋は成就するか ―。演劇は生きものである。同じ演劇を何度上演しようと、何度観ようと、常に一回限りの演劇である。観るもの(私)は何に共感したか、何が安心感を与えないかが「私的感想」のモチーフである。

2. 演劇の人間像        
登場する女と男は、仕事はそれなりにできるが目立たない。他人に迷惑はかけないが、友達は少ない。恋愛はなかなかチャンスがない。個人としての趣味はもっている。これが現在の若者の平均像なのだろう。劇中、2人とも実直で一生懸命に生きていることが表現されており共感できる。女と男のセリフや所作は2人の関係を意識して成り立たせようとしていることで緊張感を持続している。山の災害や爆弾という厳しい環境にあっても、最初の個人としての対応から、徐々に2人による協同関係での救助に向けての模索は、恋愛関係への推移の自然な流れと均衡している。
現在も将来も人間は、若者であろうが、高齢者であろうが自由に、平等に生き、死んでいくだろう。現在の人間は、科学、技術、生活、表現などの分野で、潜在力を含め、すばらしい能力や蓄積した力を持っており、発揮している人間が多い。いつの時代でもそうだが、その力を活かすのも、場を創るのも、自分が生まれ、育ち、日常生活から培われた生き方を根底に据えた「個人力」を基点に、人物相互の関係を大事にするところにしか存在しない。仕事と遊びを両立させたくても時間がないなら1日24時間ではなく25時間目を創る余裕を持つようにしたい。「恋愛のチャンスがない」。そんなことはない。人生では必ず好きな人に出会える時がある。こうしたことへの第一歩は劇中の2人の関係が教えている。

3. 山(災害)と爆弾の意味
山に私は「信仰」としての山を連想する。遠方から眺めた時の雄大さ、美しさ。その山は、水、空気、動物、植物を内包し、自然の恵みをもたらすと同時に、心理的要素を含め山の中での神秘的、恐怖的体験をもとに「信仰」の対象になる。自分を包んでくれる存在であるとともに、噴火、災害をはじめ危機的亊態が発生してくることとその解決のため、巨大な「信仰」の力をなす。
その山への登山は幾通りかの方法、ルートがあろう。その中から一つの方法、ルート(あるいは組み合わせ)で登る。一つの道の選択である。人生も可能性は無限だが、選択する時は一つの道である。登山は山と自分との共有関係の表れであり、災害等の発生は、山の崩壊として人間との「信頼」を崩壊させる。
山(災害)は自然的圧迫であるなら、暴力、戦争などを想定する爆弾は人工(科学)的圧迫である。        
爆弾に連想される思いがある。ある劇のことである。1972年、旭川の劇団河は『鴉よ、おれたちは弾丸をこめる』(作・清水邦夫 演出・星野由美子)を公演した。ある青年の公判事件の裁判中、爆弾を手にした老婆たちが法廷に乱入し、裁判所を占拠し、爆弾を爆発させ、青年を救い出そうとする。老婆たちには、長年、積り重なった「胸のうちの燃える憎悪」に光をあて、甦生して生きていこうとする思いが爆弾につながっていく。
老婆たちの受けてきた抑圧、屈辱は、老婆だけでなく、そう思う人間すべての共通の暗い闇として蓄積された恨みである。そこに「光」をあて立ち上がろうとする劇的要素は絶対に支持できる。
『山がある。』では爆弾は爆発しないものの正体がよくわからないことから強迫、抑圧の「見えない壁」として不安感を増幅して立ちあらわれているようだ。劇的に「内なる変革」と「内なる変身」により、現在の「見えない壁」を登ることは、かつて『鴉よ、おれたちは弾丸を込める』に参画した若者(現在の高齢者)が、おき忘れてきた思いの一つである。それが『山がある。』への共感である。

4. 仕合わせへの出立
『山がある。』で女と男は、恋の成就=幸せ(しあわせ)に向けて一歩踏み出した。
山は登山だけではない。下山もある。「しあわせ」は、「仕合わせ」の字を当てることもできる。これには幸福や不幸を含む「めぐり合い」とか「運命」という意味が込められている。人間の出合いは幸福か不幸か 決まっているものではない。幸福も不幸も背負っている。2人は下山で、仕合わせへの出立をしたところだ。
登山が自分の何かを究めたり、把握したのなら、劇的な意味で、それを私たち(観客)に向かって共有していくことが下山になろう。この演劇の最後は、2人が下手の袖の方から「仕合わせの出立」に向かう場面で2人の先行きは嵐の吹く場所、安全でない世界を暗示しているようにもみえる。しかし、その場所こそ、つねに安心感を与えない意識を保有している証しなのかもしれない。しかし大事なことは、目標に向かって一歩を踏み出したことである。