後 記

細川泰稔氏の寄稿
 旧友の通称・ホソさんが前回の『腐食』に続いて今回も『山がある。』についての論稿を戴いた。本誌の内容に特別な厚みが加わったことに感謝し、今後もよろしく協力をお願いして厚くお礼を申し上げます。

演劇を道具に使うこと          
僕は「演劇を道具に使う」という言葉をよく使う。自由民主党が『文化芸術懇話会』という勉強会を作って、政策を芸術の域に引き上げる研究会という名目で会合を催した。気になるので、僕の言葉の内容を再考して、その違いを考えてみる。

僕の意図は宣伝が目的ではない。いわゆるプロバガンダは排除する。だが結果として何かの宣伝になっても、表現が良質で素直で結果的に良い効果が現れた場合は可であること。

つまり『文化芸術懇話会』は、単純に政治的目的に芸術を使うわけだから、その違
いは明白だと思う。

そして『芸術』という熟語はなるべく使いたくない。『表現』とか『舞台』とか、何とか言い換えようと悩む。

演劇は遅い?
北海道新聞夕刊の「道新文化部」というコラム(掲載日不明)に中出幸恵さんが表記のタイトルで、『藤田貴大という劇作家が「演劇という芸術は重い」と言い、それでも、「見たいと言ってくれる人がいるから書く」という言葉に清々しさを感じるが、現代では〝速度〟を意識することも必要なのではないのか。(要約)』と問い掛けている。
だが僕は、スピード優先の周囲の状況に乗っかるのは、何だか軽薄のような気がする。肝心なのは速さではなく、出来上がった作品の結果次第なのは言うまでもないのだが……すこし引っ掛かって考え込んだ。   

今号も発行が遅れた。今回は特に『ねじ式』について、清水正氏の分厚い著作『つげ義春を読む』と原作とを並べて首っ引きで読みながら考えたので、遅々として異常に時間が掛かってしまったが、やっと一応の区切りを付けたつもりです。