半 神

観劇日時/15.6.14. 17:00~18:45
劇団名/劇団 アトリエ

公演回数/第17回公演 名作劇場5
上演形態/シアターZOO企画公演【Re:Z】
原作・脚本/萩尾望都 脚本/野田秀樹 演出・脚本/小佐部明広
振付/柴田知佳 照明/相馬寛之
音響/小佐部明広 衣装/佐々木青・石川有里
大道具・小道具/蛯名里美 宣伝美術/小佐部明広
制作/濱田那津子

劇場名/シアターZOO
出演/シュラ=柴田知佳 マリア=びす子 先生=小山佳祐
スフィンクス=信山E紘希 ハーピー=茎津湖乃美 ユニコーン=有田哲
マーメイド=女池祥子 ガブリエブ=山本眞綾
父=伊達昌俊 母=本吉夏姫 老哲学者=遠藤洋平

二律背反の中での存在の苦悩と孤独

手塚治虫・つげ義春、そして今度は萩尾望都と40年以上も前の劇画黄金時代の代表作の舞台化を観劇する日が続く。手塚治虫は壮大だけども分かり易かった。つげ義春は含意が複雑だけれども様々な受け取り方と解釈の出来る幅の広さが魅力的だ。
さて今日の『半神』、単純に考えれば人間の対人関係をどう意識するのか、という話で一つの肉体に二人の個性があるというのは、一人の人間の意識のプラス・マイナスという自己認識の問題ではないかと思う。
人間には自分を高揚させようという前向きな意識と同時に自己否定せざるを得ない意識も生来、潜在的に持っているのだと思う。
それは+-のどちらも否定はできない。人間とはそういう存在なのだろう。だからもしかして個人だけじゃなく人間の集団も、その集団が構成する社会も、大きくいえば国家までもが幻想の意識の中では二律背反の中で苦悩しているのかもしれない。何かそういう一種の哲学的な思索を掘り出す物語のような気がする。
そこで思い出したのは、今年の3月に上演された伊達緑ヶ丘高校演劇部の『ふゆのひかり』という戯曲の設定がこの『半神』と類似しているということだ。もちろん『半神』には深い哲学的な思想があり『ふゆのひかり』は大事な物を失った喪失感が主題なのかとは思うけれども……。
本編シーンの合間に、それぞれの出演者の本名を呼び掛けて転換するシーンが何度かあって、その部分は、本編舞台の展開とは無関係に上演団体の意図を説明するような場で、それは客観的な構成を創ったのだろうが、これは浮いてしまって逆に観ている方は冷めてしまった……