ねじ式 ~夢日記より~

観劇日時/15.6.7.  15:00~16:30
劇団名/熊本 劇団・夢桟敷

公演回数/第67回公演 透明人間三部作完結編
原作/つげ義春 作/山南純平 演出/さかもとまり
劇団員/東田まなみ・KAREN
音楽/坂本冬馬・タカハシユウジ・中村のわーる・工藤慎平
舞台監督/工藤慎平
宣伝美術/坂本咲希・太郎ピーチマンション
舞台美術/肥後丸・海幸大介
音響/さかもとまり 照明/山南純平

劇場名/阿呆船
出演/青年=工藤慎平 キクチサヨコ=坂本咲希 
コバヤシチヨジ=肥後丸  新田のマサジ=太郎のピーチマンション 
天狗堂の社長=海幸大介  金太郎飴の母=夢現 
無能の人=山南純平

青春の夢で見る成長の不安

メメクラゲに腕を噛まれて死に直面した青年の、どう生きるかという心境の変遷を描いた物語であろうか。医者を求めるのは身体を治療する医者であると同時に自分の存在を確認する、もう一人の自分である異者であるのか。
混沌の最後に、血管を止めるネジを右へ巻くのか左へ巻くのかによって己の生が停まるのか伸びるのか、その決断に迷うところで幕が降りる。
原作では、探し当てた女医とのあられもない交情ベッドシーンとしての、スパナでねじを固定する手術は成功し「そういうわけで、このねじを締めると、僕の左腕はしびれるようになったのです」といいながらモーターボートの客席でキッと海上から読者を睨むように見つめるのがラストシーンである。
舞台は、この苦渋の表情とポーズのストップモーションで終わると思ったのに、それから延々と続くショーは蛇足というか邪魔であり、「アベノミクス」とか「集団的自衛権」とか余りにも直接的な語句の挿入は白ける。もちろん現実的には、これらの問題は大事なキーワードであり深く考えて取り扱うべきテーマではあるから、ギャグのように簡単に出されるのも抵抗がある。それともギャグにして葬り去ろうとでも言うのであろうか? 何とも心残りではある。本題とどういう関係があるのか?
終始、切れ味の良いエネルギッシュな演技と物語の展開は若々しく魅力的な舞台ではあったのだが。
さて、この舞台の中に、つげ義春作品の『紅い花』を思わせる1シーンが出てくるのだが、これは何を表すのか? おそらく『ねじ式』の少年に対して、少女の大人に成る過程を対照させたのであろうか? でも取って付けたようでちょっと意味不明だったのだが。

          ☆

原作を読むと『ねじ式』とは、やはり一人の青年の成長記なのではないのかと思われる。「ねじ」の具体的な意味とは何だろう?「物をしめつけるための螺旋状の溝のあるもの。丸棒の表面に溝のあるものを雄ねじ、これにはまるものを雌ねじという。(広辞苑)」……なるほど! 精神的な成長記を肉体的な例えのタイトルを付けたのか?
文芸評論家の清水正氏は「主人公の軌跡は、ねじ式に回転している」とも言っている。(『つげ義春を読む』のP26より)
「様々な解釈の戯れに身を投ずること。――描かれた世界を解読するにあたって、様々な手を使って、このテキストに揺さぶりをかけ、再構築をはかりたい。」(清水正・『青春と生の彷徨』)という文章がある。清水正氏の解読書は、原作に書かれた吹き出しの台詞の一字一句は勿論、画面の一線一画、人物の視線や彩色までも、細部に亘って克明に解釈をしているのだ。
それによると、『ねじ式』は、オイデプス・コンプレックスの物語で野望に呪われた少年の話であり、「手術」を「シリツ」というのは「死立」であり、挫折した少年の精一杯の開き直りと虚勢の姿であるとも解説する。つまり少年の挫折を含めた一種の成長記であるとも言えるのではないであろうか。