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観劇日時/15.5.9. 18:00~19:45
劇団名/札幌座

公演名/札幌座ドラマリーディング公演
作・演出/長谷川孝治(NPO法人弘前劇場) 演出助手/弦巻啓太
照明プラン/斎藤歩 音響プラン/長谷川孝治 
照明オペレーター/市川薫
音響オペレーター/高子未来 映像オペレーター/佐藤健一
イラスト・宣伝美術/若林瑞沙 写真撮影/田邉馨
チーフディレクター/斎藤歩 プロデューサー/平田修二・木村典子
制作/松本智彦・横山勝俊

劇場名/シアターZOO

立体小説

リーデング公演の新しい方式という形の演劇だという。僕は元々「リーデング」というのは稽古途中での公開、つまり公開稽古だと思っていた。それが最近様々なところで「リーデング」を新しい舞台方式の考え方として公演することを眼にするようになって、今回のこの公演もどんな形で上演されるのか大きな期待を持って客席に座ったのだ。
以下、まず上演された4作品の実際をご紹介する。すべて4人の俳優(=弦巻啓太・宮田圭子・木村洋次・山本菜穂)が、各人物の台詞を椅子に腰かけたままで台本を見ながら、さらにト書きも読む。
背景には、その物語の内容とは全く関係のないような主に風景や動植物などの実写が次々に映し出される。

演目1  当世出家事情 

 卒業論文に「現代演劇論」を取り上げた男の学生は、数多くの舞台に「消費」と「経済成長」しか問題にしない日本社会の「ひずみ」を見て、ある時、歌人・西行の即身成仏の人間存在への慈しみを知る。生と死とに対面する潔さの美。
背景の写真はビル群と大自然の風景との対比。積極的な生き方に疑問を投げかけているようなのだが、それも経済優先の現代社会に対する一つのアンチテーゼなのだろうか。

演目2  単独者 

様々な人間関係の中で生きてゆく訳あり独身の子持ち女性ラジオデイレクター。テレビを忌避し、ひたすら音の世界に固執する。そんな彼女に微かな光明の予感のラストシーン。背景の写真は雪解け時期の人々の生活の匂いの強い下町の風景が次々に展開されるのだった。

演目3  桜(岡本かの子)

桜の華麗さと、それに対比する人生の無常を詠った和歌が次々と紹介される。フアーストシーンは墓地に満開の桜の樹々である。生と死。

演目4  市営住宅3号棟5階6号室 

複雑な家庭に生きるそれぞれの人生の、孤独と愛の記憶が語られる。写真は人間が現実に存在する象徴でもある集合住宅の群立写真。

          ☆

単なる演劇ではなく、新しい表現の形としての舞台芸術というのだろうか? 現行の演劇に対するどんな意図があるのかは、まだ分からない。だけど僕にはかなり欲求不満が強かった。
僕にとって演劇とは、文字通り「劇」は、虍(トラ)と豕(イノシシ)の二大猛獣が刂(りっとう)、つまり、刀で戦うという字義だ。演は(述べる)の意である。
つまり演劇とは、人間対人間あるいは人間対社会がみせる葛藤展開の過程を表現することで、そこに演劇の神髄があるとずっと思っている。
この舞台は小説を立体化した表現だと思った。小説だとすると、この舞台はまず読み返しが出来ないのが難点だ。小説は何度も何度でも読み返しが出来る。読み返しによって感じが深まるし変わる可能性だってある。ゆっくりと味わって深く読むのが小説であり、演劇は激しく展開する一過性の物語であり、その一過性に強いインパクトがあるので、小説とは表現の魅力がまるで異なるのだと思う。
もちろん演劇にも深みがあり丁寧に味わって観ることも当然だし、小説だって激しい展開の物語もある。でも基本的に違うそれぞれの魅力があると思う。これは小説を立体化した表現だと思うのだ。そこに違和感が強い。
ベテランの俳優たちなのに滑舌が悪くて意味不明だったり台詞を噛んだりしたり一瞬戸惑うのだが、これが生きている肉体の魅力なのだろうか? そういう意味では女優3人の『人の気も知らないで』の、まさに人間そのものの肉体の存在感が強烈に印象に残ったのだ。
僕がいう立体詩という概念もある。それは活字では見えなかった詩人の魂が立体的に見えてくるような舞台化された表現で、演劇とは違う舞台に表現された詩表現という舞台を何度か観たのだ。今日の舞台はそれとも違う。
この表現には明らかに一定の意図があると思われる。いまの僕にはそれが分からないのだが、僕にも一つの新しい表現法として感じられる舞台が再現されることを期待したい。