PLAY 芝居

観劇日時/15.4.12. 14:00~15:00
劇団名/風蝕異人街

作/サミュル・ベケット 演出/こしばきこう
音響/町田良介 スポットライト/こしばきこう
制作/実験演劇集団「風蝕異人街」

劇場名/アトリエ阿呆船
出演/女1=堀内まゆみ 女2=三木美智代 男=斉藤秀規

全く別物の舞台

2月に、すがの公・演出『札幌座』の、この舞台を観た後で、いろいろと想像していた。
基本的には死者である3人3様の怨念・焦慮・自己主張そして断罪などのマイナス面の葛藤なのであろうと思ったが、これを生きている人達の閉じ込められた心境として表現したらどうなるだろう。それともコクトーのように固く指定されたト書きがあるのだろうか?
閉塞状態の中での混乱と軋轢を象徴的に描いていると思ったので、逆にその閉塞状態を固定された硬い壺じゃなくて、例えば紙製の壺にしたらどうだろうか? 中に入っている人間はがんじがらめに動けなくなっているというのは思い込みで、力を入れれば破れるよ、とでもいうような紙製の壺だとどうなるんだろうか。
その紙製壺の裏から照明を当ててシルエットで映せば、滑稽に動く人物が見えるかも知れない。その人物は裸体だったりしたらどうだろう? スーツ姿だったら? さらに、その壺が透明のプラスチック製だったら、どうなるだろう?
全く壺の形の枠だけの、壺と思い込んだだけの何もない壺の形だけだったら、どうなんだろう? などとエスカレートして空想・妄想を大いに楽しんでいた。とうとう「一壺天」の故事までも想像は膨らんだのだが、それはちょっと世界が違うかなとも思うけれども……
何故そんな妄想が産まれたのかというと、この大道具である壺が、劇団『MODE』の壺を『札幌座』が譲り受けて、さらにそれを『風蝕異人街』が使うという話を聞いて、単なる使い回しじゃないのかと義憤を感じたからなのかも知れない。
だが今日の舞台は『札幌座』とは全く違った印象で、違う台本じゃないのかとさえ思ったくらいだった。
すがの演出は、直接的な三角関係の痴話喧嘩そのもののようで、それはそれで人生の一つのPLAY=ここでは芝居じゃなくて遊びというか虚偽的な人生の一断面というか、それに対して、こしば演出は冷静で客観的な解説のように感じる。
観ていていろんな妄想が浮かぶ。壺がゆっくりと膨らんだり縮んだり歪んだりするように見える。小さなボード状のスクリーンが浮かんで、何かの説明や図表やキャプションの文字列が並ぶが、それはそのシーンとは何の関係もないようだ。かと思うと3人の顔に反射光シールが貼りついて異状に光って浮き出して見えたりまるで半睡の夢の様だ。現実にそういう表現はまったくない。僕の妄想だ。
いつ始まったのか、いつ終わったのか、突然始まって気が付いたら終わっているという一場の幻影の方が良いような気がする。だから終演後の挨拶は不要だと思った。いきなり強制的に現実に戻されると違和感が強い。
音楽が邪魔に思ったけど、これは意図的なのだろうか、演出なのだろうか?
開演前に燕尾服の男(=こしばきこう)が恭しく客席の最前列のその前に自分で出した椅子に座って一人の観客となる。暗転で椅子ごとに去って開幕となる。ただその椅子が燕尾服に似合わない学童が学校で使うような木製の骨だけの粗末な椅子だったのは、これもPLAYなのか?
それとこの戯曲の翻訳者の記載が無かったのが不審だと思う。『札幌座』とは違う翻訳者の本だったかも知れない、などと思ったほど異なる印象を受けたからだ。