地面と床

観劇日時/15.3.22. 14:00~15:30
劇団名/チェルフィッチュ

作・演出/岡田利規 音楽/サンガツ
美術/二村周作 ドラマトゥルグ/セバスチャン・ブロイ
衣装/池田木綿子
解剖学レクチャー/楠美奈生 舞台監督/鈴木康郎 音響/牛川紀政
照明/大平智己 映像/山田晋平 宣伝写真/梅川良満
メインビジュアル・タイトルロゴ/東泉一郎
フライヤーデザイン/小林剛
出演/長男・由紀夫(=山縣太一)、その妻・遙(=青柳いづみ)、
次男・由多加(=矢沢誠)、母・さとみ(=佐々木幸子)、
美智子(=安藤真理)

劇場名/コンカリーニョ

斬新な表現方法なのだろうか

 この配役表と舞台に設営された大きな、まるで十字架のような字幕に映し出される英語と中国語の文字を見ていると、何だかほとんどリアルな家庭劇のような雰囲気が感じられる。
 だが正直言ってほとんど意味不明だ。おそらく兄弟の葛藤と、亡くなった母親と次男の由多加の生き方と長男夫妻との、生きている人と死んだ人との理想を巡る論争のような気もするのだが分からない。生きている人は床の上だし、死んだ人は地面の下の謂いだとは思うのだが……
 登場者たちは全員、対話というよりも勝手に自分の思いを語っているようで、平板で抑揚の少ない独り言のような喋り、全員がワイヤレスマイクを使っているからその声はますます機械的で平板で個性が感じられない。
 そして全編が強烈な音楽というか特に音響効果は、雑音のような通低音が流れ続けて何か不快感が起きる。それが狙い目なのか?
 基本的には現在と過去の人たちとの人生に対する攻めぎ合いなのだろうが具体的な問題としては印象が薄い。
 立場の不明な美智子が語る日本語不要論などはこれだけを独立させると面白いのかもしれないが、この文脈の中では孤立する。
 同じように死者と敗者である次男の側と現実に次代の我が子を身ごもった長男との対立も今一、見えにくい。「戦争が始まる気配に包まれている」とパンフには書いてあるのだが……
 演劇というよりも、抽象的な表現を用いた何か新しい表現のようだ。08年8月に観たこの「チェルフィッチュ」が上演した『三月の5日間』の表現法の、台詞と動きの非整合性に強い魅力を感じたし、それを真似た様々な演出の特異な独自性にも大きな興味と関心とを持ったのだが……
 勿論、当時の世界の危機的情勢と、それに対して日本の若者たちの虚無的な生態を描出している問題意識にも大きな衝撃を受けたのであったが……
僕の右隣の若い男性と左1席空いた隣のこれも若い女性がひっきりなしにウトウト、コックリコックリと頭を上げ下げしていた。
 観客の中に演劇関係者が、僕が目撃あるいはご挨拶しただけで13人、その中には帯広からの3人もいた。このウトウト・コックリとの対比は何だろうか?