観終わって分かった物語の展開を時系列に沿って述べてみよう。健司(=戸澤亮)の父親は北海道の炭坑で坑員たちにも慕われ会社からも信頼の厚い模範的な坑員の頭だった。だが家庭を顧みないのでストレスに陥った妻は当時、都会から落ちぶれて坑員になった男と幼い健司を連れて男の居た都会へ逃げた。
その男の娘が現在の健司の妻・由里子(=飛世早哉香)だが、彼女はその事情を知って、同じ境遇の健司に惹かれたのだった。
それから何十年、健司の父親は亡くなり健司は学生運動の人気者になったが、生活は無軌道で脱落して炭坑で今も暮らす母親の願いによって妻・由里子を連れてこの炭坑の坑夫となって来たのだ。
偏屈な健司、でも由里子はそんな健司を愛し、それは由里子自身の境遇が健司と相似形だったらしい自覚があった。
炭坑の坑員としての仕事は過酷だ。常に死と直面している。健司は一種の絶望感と「一山一家」の思いが強いために自己犠牲に一種の憧れさえ持つ。
そのころかつて東京で一緒に学生運動をやっていた同志の茜(=田中温子)、信也(=有田哲)、武男(=國部竣太郎)の三人が改めて社会改革の運動をやろう、そのためには健司の圧倒的人気の歌を一緒にやりたいと思って田舎の炭坑に引き込んだ健司を誘い出しに訪れる。だが健司は頑なに再出発を断る。由里子も健司に同意する。幾度かの事故が重なり、ついに健司は重大事故で亡くなる。
残った由里子とそのとき身ごもった子・麻美(=長谷川友子)が高校生の頃、母子家庭の二人は生活の為に都会へと転出する準備を始める。
この複雑な物語を、時系列を無視して昭和の匂いの強い6畳一間の炭鉱住宅で演じられるリアリティの強い舞台だ。
物語の主な背景は60年代だがこれは現代の原発の悲劇とダブる。当時のメインだった石炭産業の悲劇は現在の原子力発電のもたらす壊滅的な悲劇と、これも一種の相似形なのだ。
人間の物質的欲望の結果としての悲劇は永久に続くのだろうか? その中で己の生き方を全うした人々の人間らしいささやかな生き方に強い共感を持つのだろうか?
この展開が時系列を無視して入れ替わり立ち替わり展開するので非常に分かりにくい。でもインパクトの強弱に従って表現されるので、後で思い出すと逆に分かりやすいのかなとも思うのだが。
由里子と健司が生きる現在に現れる未来の麻美、由里子と麻美の現在に現れる過去の健司、という二つの時代を対照させてみせる視点が印象的だった。
『月のツカイ』というタイトルは何を象徴しているのだろうか……? 大自然による宿命の悲劇を暗示しているのだろうか? |