PLAY

観劇日時/15.2.28. 14:00~14:40
劇団名/札幌座

原作/サミュエル・ベケット 翻訳/安堂信也・高橋康也 
構成・演出/すがの公
照明プラン/岩ヲ脩一 音響プラン/すがの公 
照明/市川薫 音響/佐藤健一
大道具協力/高田久男 宣伝美術/井嶋マキ子 
フライヤー粘土細工/すがの公
ドラマトゥルク/斎藤歩 プロデューサー/平田修二
制作/公益法人日本劇団協議会

劇場名/シアターZOO

迷路の非日常性

 何時もの劇場への入り口が違っていた。正面のドアの隣にある楽屋へ通るドアが客席の入り口なのだ。すがの公が13年12月に創った『ロッスム万能ロボット社会』もサンピアザ劇場の客席正面入り口ではなく上手廊下から入って行く設定になっていた。さらに14年8月に観た南参・作・演出の yhs『つづく、』も劇場コンカリーニョ裏手の道具搬入口からの荒涼とした入口だった。いずれも別世界への誘導だろうか。
 劇場・ZOOの楽屋通路は色んな用途の小部屋にも通じる廊下が狭く曲がりくねって段差があり、スタッフが懐中電灯で足元を照らしている。僕ら老人が進むにはいささか危険で、何か刑務所へでも行くような錯覚さえ感じるが、わざと快適ではないイメージを創っているような、別に言えば一種のワクワク感がしないでもない。
 いつもの舞台が客席で、此処から今日の舞台である客席を観ると仰ぎ見るような感じ、しかも気のせいか遠くに見える。そこには陶器製のような高さ2メートルもある大きな壺が3個並べて置いてあって、上部の口には人間に顔を型取った首の形の蓋のようなものが置かれている。
 冒頭、異常にテンポは遅いのにチンドン屋さんのワクワク感のような音楽が、ブッ壊れたテンポと非協和音なのに、お祭り的狂騒のような異常な協和性がある。
 場面が転換して明るくなると、壷の顔は生きている本物の人間の顔である。妻(=高子未来)と浮気相手の女(=坂本祐以)の二人に囲まれた真ん中が夫(=彦素由幸)の3人だ。壷は人間の身体のようには動けない3人の顔だけの男女の、これも動きのとれない男女関係か。
 壷で表される三角関係の身動き出来ないことと、実際の三人の身動き出来ない物理的関係の象徴。男女の他愛もないありきたりの三角関係のグチと正当性の主張だけの40分。
 様々な象徴と見える。死後まで引きずる怨念とも見えるし、僕はそれぞれの夢の中の自己本位の葛藤とも見えた。同じやり取りの台詞がながながと2回繰り返されたのは人間関係の閉塞感だろうか。
 照明を当てられた人物だけが一方的に喋り捲ると、一瞬後には別の明りを当てられた人物が喋る、また次の瞬間には3人に一斉に光が当てられると3人は一緒に別々のことを喋る、何を言っているのかまるで分からない。
 いきなり真っ暗になって終わる。何の告知もなく終わったことすら判然としない。客席は茫然としている。カーテンコールもアナウンスもない。大きな壺に閉じ込められた3人の男女は一体何だったのか? 彼ら彼女らは何だったのか? 不思議だが、インパクトの強い存在で既成演劇の概念にはまったく存在しない40分ではあった……
 『PLAY』というタイトルは、こういう不安定な人間関係こそ、架空の存在であるお芝居だということだろうか?
 固定化されていることが不条理なのか? 固定化された中でどう生きるのか、生きられないのか? が不条理だとしたら、これは三人の言いたい放題であり現実そのものの描写であり不条理とは言えないのではないか?
 この物語は、井伏鱒二『山椒魚』のイメージでもあり、「どうにも動かしようのない人生の現実に対して虚勢を張りながら無力を自認せざるを得ない自己の精神の戯画(中村光男)」なのである。
 『山椒魚』は、後年「反目と死」のシーンをカットして「山椒魚と蛙の互いの存在を黙認して生きる」で終わることになる。『PLAY』は「死」も「暗黙の存在黙認」も描かれない。チエホフの『賭け』にも拘束の意味があるようだ。
 この話は、単なる男女の痴話喧嘩なのに、動きの取れない人間関係の基本、ひいてはあらゆる集団や大きくは国家間の関係までをも想像させる不条理の基本形のようにも感じられて、そういう意味ではコクトーの『声』を思い出させる相似形を感じた。