想稿 銀河鉄道の夜

観劇日時/14.4.19. 15:00~16:20
劇団名/Theatre Company Ort-d.d

原作/宮澤賢治 脚本/北村想 演出/倉迫康史
ビジュアルディレクション/ROCCA WORKS 
照明/伊藤馨 照明操作/横佩彩 音響/相川晶
舞台監督/弘光哲也 演出助手/大野裕明・豊田昌史
写真/GO  チラシデザイン/村松ゆうか 制作/岩間麻衣子 
出演/小林至・代田正彦・舘智子・藤谷みき・八代進一

劇場名/シアターZOO

なぜ想稿で演じるのか? 賢治のオリジナルを独自に舞台化すれば?

ジョバンニやカンパレルラはもちろん、ザネリや宮澤賢治も、僕の中では一種、神格化していたのかも知れない。登場人物たちは、なぜか登場している賢治を含めて、みんな僕の意識の中の人物たちとはかなり違った人物というか、普通の現代人であった。
冒頭、場面はちょっと原作とはイメージの違った宴会場のような設えだ。豪華とはいえないが白木造りのテーブルの上には様々な料理や飾り付けが整えられている。
そして、そこで「午後の授業」が始まるのだ。ジョバンニもカンパネルラもザネリも少年ではなく、青年というよりはむしろ中年のオジサンっぽいのだ。カンパネルラにいたっては髪に白いものが混じっている雰囲気で、それを隠さずありのままに存在させている。これはこの物語を特定の世界とは見ずに一般の現代の物語にしようとしたのだろうか? だとするならば台詞が原作通りだから、違和感が強い。どっちつかずの中途半端な感じに戸惑うのだが、それは僕が賢治の世界を神格化している悪弊なのであろうか? そもそも想稿で演じる必然性が分からないのだ。
舞台は一貫してこの宴会場のような長テーブルを囲んで異常にテンションの高い表現で演じられる。だが基本的には原作の世界を外れたものではないのだ。
ここでもやはり、もういちど原作を読み直してみたい誘惑に駆られる。僕はいつまでも賢治神格化の意識からは逃れられないのだろうか。
リーデング公演や別の形の公演など、A~Fの7つの別バージョン公演を、A2版の巨大な四つ折りのこけおどし的な告知パンフレットで宣伝しながら、AとB公演には肝心の開演時間が抜けているという繊細な神経の抜けた広報がこの集団の最大欠点だった。どうにも馴染めない集団の舞台であった。