演 目
ロッスム万能ロボット会社
観劇日時/13.12.1. 14:00〜15:50(途中休憩10分)
劇団名/札幌座
公演回数/第40回公演
原作/カレル・チャペック 翻訳/千野栄一 脚色・演出/すがの公
照明/岩ヲ脩一 舞台美術/佐々木陽子 大道具/アクトコールKK
舞台スタッフ/札幌座 衣装デザイン/井嶋マキ子 宣伝美術/若林瑞沙
フライヤー人形制作/すがの公 撮影/田邊馨
制作/笠島麻衣・横山勝俊 ディレクター/斎藤歩 プロデューサー/平田修二
劇場名/サンピアザ劇場
出演/木村洋次・佐藤健一・清水友陽・高木未来・宮田圭子
客演/彦素由幸・高橋雲・古崎瑛美・渡辺友加理・中塚有里・温水元・谷口健太郎・木山正太・天野ジロ・飛世早哉香・赤坂嘉謙・高石有紀・立川佳吾・重堂元樹

文明の極限

 去年の12月に、東京上野の「上野ストアハウス」という小劇場で観た、演劇集団『砂地』の『RUR』という舞台がこれだ。「究極の人間とは?」という気取ったタイトルで下記の小文を書いている。(『続・観劇片々』39号所載)
           ☆
 ロボットという造語を創ったのがこの作者のチャペックであるが、この作品では人造人間の究極のあり方を問うことによって逆に人間の存在意義を問いかけるような展開になっている。
 離島で6人の科学者が人間の全ての作業の代換えをする人造人間を創っている。見た目、触った感覚、的確な応答それらの全てが人間と何ら変わらないロボットが何億体と造られ様々な実験が行われている。
 そこへこの研究所の責任者の娘がロボットの人権について調査に来る。当然ながら道具としてのロボットに人権はない。
 疑問視しながらも、やがて彼女は所長と共に此処で生活をすることになる。それから10年後……
 極度に脳が発達したロボットたちは逆に人間を征服し始める。そして最後に残った所長一人……
 ロボットは人間に変わったのか、人間に代わったロボットは次の世代の人間と成り得るのか?
 狭い舞台に僅かな実験道具などが置かれた所長室、所長のデスクには大型コンピューターのモニターが客席に向けられて真っ黒な画面に灰色の雲型の抽象模様がまるで人間の脳のレントゲン写真のようにも見えて、微妙に形を蠢かせて表現されているのが、何とも混沌としている人間の在り様を象徴しているのかもしれない。
 14人の俳優が人間とロボットに分かれて、壮烈な会話劇を時には暴力をも交えて展開するのだが、それは力いっぱいの演技が延々と続くためにかなり疲れるのだ。
 同じような展開の繰り返しだからもっと削れると思われるし、もっと親しみやすいエンターテインメントの要素がある方が訴える力も強いのにと思う。眠気をもたらさなかっただけ内容に力があったのだろうが、観終わって疲労困憊したのは事実であった。
 人間とロボットが混在して人間の本質のプラスとマイナスの両面を検証する一種の寓話劇であろうか。
          ☆
今、読み返して思うのは、この舞台は論理的で理屈っぽくて疲れて面白味の少ない
舞台だったなあと言うことだ。だからこの新しい、札幌座・すがの公の舞台を大いに期待したのだった。
 だが肝心のこの舞台も前半は、何故かやはり理屈っぽく堅苦しくあまりすんなりとは入って行けない雰囲気が強く感じられたのだが、客席に通じる通路に飾られたロボットを表す真っ白なたくさんの人形たちが硬質なイメージを強めたのだろうか。もしかして僕自身が先入観に捉われているのかもしれないと思い直し、休憩後の後半では真っ白な気持ちで素直に観ようと心を入れ替えて観なおした。
 すると舞台も後半は人間が主体となって展開して行くようで、前半の心を持ったロボットの硬質な感じが薄くなって生きている複雑な人間の心情がよく出てきて、その悲劇が素直に表れてきたような気がしてきたのだった。
 後半で出てくるロボットたちが心を持ち始めたために衣装や面などが同じような基本でありながら微妙に個性を持っているのも、あるいは人間の感情に近づいた象徴的表現として感じられたのかもしれない。
良く知られた話であり、要は人間が欲する欲望を極端まで追求した結果が起こす悲劇であろうか。ここでは人間の労働が問題になっているが、この問題を物質的な欲望に置き換えると当然、原子力エネルギーの問題になって、実に現実的な悲劇に直結する。いづれも飽くことなく人間の欲望の末を案じる話だが、これが100年も前に書かれたことに驚嘆するし、人間の業をも改めて考えさせられる。