映 画
許されざる者
観劇日時13.10.26. 14:45〜17:00
劇場名/ディノスシネマ札幌劇場


 評判の映画だし、全道民必見などというコマーシャルコピーもあったりして、そういうものに弱い僕としては、どうしても観ざるを得ないという義務感でとうとう観てしまった。
 予定通り大作だが物語は良く知られているので改めて紹介はしない。一言で言えば、時代の変わり目に出会った刀の使い手でイッコク者(=渡辺謙)が、考え方を変えて新しい時代に生きようとしている時、昔の仲間(=柄本明)の誘いに乗って弱い者たちの味方になる義憤と、体制を肩にして暴力をもって力を誇示する官僚を、我が身を賭して命がけの闘争を遂行する波瀾万丈の西部劇だ。
 この話を否定する人は居ないだろう。特に主人公の生き方は万人が共感するだろう、たぶん自分では実行は出来ないことは分かっていても、その代償行為として喝采を叫ぶのだ。そのことに異論はない。 
 だが時代考証的に、いささか疑問を感じてちょっと着いていけないシーンが散見する。
 その第一は、お女郎さんたちが受けた屈辱の見返しに一千円の懸賞金をだすという設定。当時の一千円を現在の貨幣価値に直すと、おそらく一億円くらいだろうか? その位でなければこの交渉は成り立たないであろう。
 だが、お女郎さん6人が一億円を用立て出来るのだろうか? もちろん当時の貨幣価値と現在の貨幣価値とでは消費生活の基準が違うから単純に比較は出来ないとは思うけれども、何となく素直に感じられ難いのだ。
 次に、取り締まる町長兼警察署長だけれど、彼がなぜ、これほど権力的に暴力で取り締まるのか、単に彼の権力志向と幕府残党の反体制勢力に対する憎しみだけとは考えにくい。もちろん、そういう設定だからこの話は成り立っているのだが、何だかピンとこないのは余りにも現代の考え方の基本に引き連られている僕の素直でない感覚なのだろうか?
 そう考えると、母の亡くなった幼い姉弟を荒野のあばら屋に残して旅立つのも、近所に義父であるアイヌの長老がいるからだというけれども、そこに無理を感じるのも余りにも現代的な思考なのだろうか?
 だが、そう言った諸々の事情はすべて当時の生活感として当然だと考えれば違和感は無くなるのかもしれない。むしろ、それらを通り越して男の一途な思いと哀愁が強く残る。
彼の亡くなったアイヌ人の妻とのエピソードも、観客が想像すればよいので、最後に新聞記者に向かって「観たことすべてをその通りに書け。ただし女郎とアイヌのことを書いたら必ず探し出して命を絶つ」と言った彼の言葉がすべてを語っているのかも知れない。痛快な男の夢物語で、それには無条件で快哉を言いたい!