演 目
瞼の母
観劇日時/13.10.4 19:30〜20:15
劇団名/楠美津香ひとり語り
原作/長谷川伸 脚本/楠美津香
劇場名/旭川まちなか文化小屋

昭和人情芝居の再現

 楠美津香は、これまで長い年月に亘って、シエイクスピアの全作品を「超訳」という名の下に、一人芝居というか一種の話芸として演じてきた。
 つまり登場人物を一人で演じ分けるのだが、それは僕が考える一人芝居の第3の上演方法である「落語の手法」である。一人の演者がすべての人物を一瞬にして交代で演じるのだから、観ている方が混乱しないように演じ分けなければならない。 
 落語は、基本的に演者の顔向きを変えることによって人物を表す。楠美津香も基本はほとんど同じだが、更に分かり易くするために、それぞれの人物に特性を付加する。
 たとえば今回の主役・番場の忠太郎はサングラスを掛けたり、母親である水熊の女将・おはまは煙管を持ったり、ある人物は田中邦衛の物真似で演じたりする。
 しかも開演冒頭、舞台の上に置いた黒板に人物相関図を書いて、その説明をする。これでシエイクスピアも長谷川伸も、その登場人物はいきなり身近な人物となって話に入り易い。だがこれは極小空間だから可能な技法で、大劇場や中劇場ではスクーリンなどを使うなど別の技法が必要だろう。
 さて『瞼の母』だが、その相関図説明のあと、いよいよ本題に入ったのだが、何だか話術がよれよれに聞こえて内容が判然としない。どうしたんだろうって思う内に、自分でも気が付いたのか無理なく自然に回復してきてちょっと安心する。どうしたんだろう? 過労じゃないのかと心配する。
 話は佳境に入るが、演者はサングラスを掛けたり外したり煙管を持ったり置いたりいかにも煩雑だ。落語のように素手で人物を表わす技術が必要であろう。
 本人も頻繁に忙しく交換するので混乱するのか一回絶句して言い訳をし、やり直したところがあったが、プロとしては最低だ。少なくても絶句した途端に何らかの方法で急速に回復するべきだ。
 また落語の話になるが、先代の文楽は絶句した途端に「勉強し直します」と一礼して退座し、その後引退したのだが、それほどストレートなことは要求しないが、もうちょっとうまく修正する必要はある。
 母を慕うやくざ者が母に会えた時には周りの義理で身を引く、という昔の人情悲劇を現代に蘇らせようとしたのだが、親子の繋がりの薄いと言われる現代人に何かを訴えるインパクトはあったのだろうか? 海流座の菊池寛『父帰る』も家族との断絶と回復の話だが、親子関係もそういう義理人情の時代だったのか。
終演後、人情芝居のサービス・プログラムと称してコントを3題ほど演じた。
一つは逆ストリップと題して、音楽に合わせて股旅衣装を脱いで行く。楠の年齢は知らぬが、黒の肌着になったとき年齢を感じさせないスリムな肉体美はちょっと意外だった。それからは演歌に併せて和服を着ていくと最後にはちょっと素敵な和装美人の出来上りであった。ハハハハ……