演 目
生きてるものはいないのか
観劇日時/13.7.14. 15:00〜16:45
劇団名/アトリエ
上演形態/第9回公演 名作劇場2
作/前田司郎 演出・宣伝美術/小佐部明広
照明/相馬寛之 音響/渥美光 衣装/chitoo 小道具/小川沙織
制作/喜多満里奈
劇場名/BLOCH

私が死んだら世界はなくなっちゃう

 ある大学の近くにある喫茶店、男一人女3人が愛情の有無を巡って険悪な関係のはずなのに、緊迫感のないやりとりを繰り返している。
 そのキャンパス内の学生たちの溜まり場、4・5人の学生たちが、友人の結婚祝賀会の相談中だが、話はいつの間にか直接に関係のない都市伝説の話題になる。
 この大学の病院に入院している若い女性のところへ、横恋慕の義兄が見舞いに来る。
 それぞれ直接に関係のない3つの場所での雑談には、その日、地下鉄とJRが続いて多数の死者がでる交通事故が連発したことを話題にしていた。それは他人事であると同時に、帰宅の不便さは我が身に降り懸かる災難でもある。
 突然、この3つの近い場所で、集まっている人々に次々と原因不明の突然死が襲う。だがそれはそれほど悲惨ではない。むしろ滑稽な死に様だ。
 一人の女は「私が死んだら、世界がなくなっちゃうのと一緒でしょ、だから、世界が死んで私が生き残っても一緒でしょ」という。
 不条理であると同時に虚無でもあり、これが現実の認識なのか。登場人物は全員が若く、そして積極的な生き方をしている様子が見られず、無責任で退廃的な感じがする。一面の真実なのであろうか。
 「私が死んだら世界がなくなる」というのは僕もまったく同じで一種の無神論だと考える。だが僕の場合、基本的に違うのは、「僕が死んで無くなる」のは僕の世界が無くなるのであって、世界そのものが無くなるわけじゃない。むしろ「僕の存在しない世界は厳然として存在する」のだ、と信じたいのだ。
 連続不審死は、その連続交通事故の延長なのか? 前触れなのか? 拡大した拠り所のない不安定な人心の象徴でもあり、後味の悪い、でも向き合わなければならない世界の象徴でもある。2008年度の第25回岸田國士戯曲賞作品である。
 とても不思議で不気味な話で、様々な思いが圧し掛かるような感じだが、それを余り強烈に感じさせないような演出・演技として表現したのは、意識的なのだろうか?あるいは技術が足りなくて、そういう表現にならざるを得なかったのか、その曖昧さが逆に意図的な表現だったのか? 興味のあるところだ。
 このテーマは、以前に当時は 「TPS」と称していた、現在の「札幌座」が上演した、斎藤歩・作『太陽系第三惑星異常なし』と何かとても類似しているのだ。
 出演は,廣田彩・松本和馬・伊達昌俊・渡辺早紀・木村歩未・酒井収・有田哲・
具志堅大樹・牧野朱里・元木みづほ・河合黎奈・塩俵昇大・山下瑚波・浦本英輝・
小佐部明広・武田明菜・信山E紘希・辻直弥。