演 目
ブレーメンの自由
観劇日時/13.6.29 14:00〜15:50
劇団名/札幌座
上演形態/pit
作/Rainer Werner Fassbinder 翻訳/渋谷哲也 演出/弦巻啓太
音楽/斎藤歩 照明/相馬寛之 舞台/アクトコールKK 音響オペ/吉原大貴
舞台スタッフ/札幌座 宣伝美術/若林瑞紗 制作/阿部雅子・横山勝俊
ディレクター/斎藤歩 プロデューサー/平田修二
劇場名/シアターZOO

生き方の抽象的で究極の選択

 現実に起こった冷静な毒殺魔、横暴な独裁者の夫(=佐藤健一)の元で虐げられた女性ゲーシェ(=宮田圭子)が、次々に周りの人たちを毒殺していく。その過程が、「自由」という意味なのか? 己の自由への開放には殺人という不道徳な選択肢もありという問いかけなのか? という形で展開される。
夫に従う日常が矢継ぎ早に象徴的演技で展開される。次の瞬間、毒を喫した夫は床に伸びて死んでいる。次々に邪魔な周りの人物たちが排除されて行く。
 排除する女と排除される被害者との生々しいシーンは描かれない。むしろ硬質で説明的な表現なのだが、それが逆に人間の心理の根底を表しているようなので、怖ろしく恐いイメージが強い。
 つぎつぎに相手が代わって同じような殺人が冷静に続けられているのだが、それが怨念とか暗い情念とかいうよりも、ある目的に向かった規定の路線を実行して行く行程のような冷めた現実のように見えてくる。
 これほど極端ではないにしても、人間が自由を求めて人間性を無視して冷酷に生きてゆくと言うことの、一つの象徴的表現なのだろうか?
 連続殺人というオドロオドロしく生々しい感じはしない。現実をモチーフにしていると言うのに、硬質で抽象的な世界を視たような気がした。
 作者の私生活、男女関係、37歳という早逝の原因、ワーカーホリック・麻薬の過剰摂取など自殺の遠因などを知ると、他人、しかも自分の存在と日常的に密接した関係にある肉親も含めた人たちをも抹殺しても求めざるを得ない自由、つまり自分の存在証明とは何だろうか? そして自分は天国へ行けるのだろうか? 人間が生きていくとはどういうことなんだろうか? 人間以外の生きている存在とは? 日々の様々な根底を問いかけているような一種の感覚的芸術なのであろうか? だからかもしれないが、達者な演技者たちの生々しい存在感が薄いのだ。
          ☆
この舞台を観ていて、僕は「シアター・ラグ・203」の『腐食』を思い出した。『腐食』は、妻の不倫の現場を目撃したサラリーマンが、その妻を殺害し、逃走して次から次へと自分の自由のために殺人を犯してゆく過程を独白する1時間ほどの一人芝居だ。
 彼はその連続殺人を自己保身のために合理化してゆくのだが、これも一種の自由への最悪のプログラムの遂行なのだ。最後に彼は「俺は許されるのだろうか?」という問い掛けを残して死刑台に昇って行くシーンで幕が降りる。『ブレーメンの自由』はその『腐食』を思い出させたのだ。
          ☆
その大勢の出演者たち。高子未来・山本菜穂・温水元・深浦佑太・明逸人・櫻井保英・井上嵩之・上西佑樹。