■■編集後記■■


既成の戯曲と近代古典作品                   13年6月末
 最近、既成作品の再演や、僕が近代古典と称している過去の名作品の上演が多いように思える。悪いことではないとは思うのだが……
 僕の敬愛する原健太郎さんは、いつも筆まめに短評を下さるのですが、直近の便にも「−近代古典―が東京で盛んになるためには何が大事なのか、(『続・観劇片々』を読む度に思います。)もしかしたら送り手ではなく、新しいものを珍重し、それだけで満足してしまう観客の側に何か大きな問題があるのではと、最近考えている次第。」とお書きになっていました。
 僕も観客の要望もあるとは思うけど、創り手の考えが大きいと思います。演劇は戯曲を創ることが第一段階の必須条件だと考えるんだけども、既成の戯曲をどのように現代の時代に即して咀嚼し表現するかということも、演劇の一つの在り方かと思うような最近です。それが新しく感じられるのでしょうか。
 それほど既成作品の上演が多く、その他に小説の劇化や、似たシチュエーションの描写があったり、その度にオリジナルの作品や過去の記録を繙く回数がとても増えているのです。それに新しい作品でも、かつて観た記憶があるような舞台も結構あって混乱したりしています。そういう最近の現状です。

寿 歌                          13年7月17日
 先日フト思ったのだが、『寿歌』の二人が全く能天気なのは、現実に生きている人たちが、世界が終焉に向かっている危機に対して全く危機意識が無いことへの象徴なにではないかと思えてきた。
 もちろん『寿歌』の二人は、一方で向日的な能天気が人類の本能でもあり、そこに期待があるとは思うのだが、最近の世の中をみていると些か絶望的になる。
 昨日の夕方、すっかり夏の陽の西へ落ちるころ、自転車で郊外を散策していると少年時代を思い出して、フトそんなことまで考えてしまった。

雑誌「テァトロ」 13年6月号 後記 (野)
 「どんな雰囲気の劇場で観劇したかが、時には芝居の中身まで左右してしまうこともあり、その場にマッチした観劇体験は特別なものとなる」
 まさに同感である。

「演劇」と「芝居」、「俳優」と「役者」           13年7月25日
 ずっと以前から「演劇」と「芝居」、それに「俳優」と「役者」とを使い分けていた。特に厳密に区別していたわけじゃないけども、何となく演劇には俳優または女優、芝居には役者という表現を使っていた。
 それは「演劇」という字句の語源には葛藤を描くという論理的な意味があるし、それに対して「芝居」という語句は文字通り、芝の上に居て楽しむという原初の直接的なエンターテインメントの意味が強いような気がしたからだった。
 ところが最近、何だかその区別が曖昧になり、「演劇」にも芝居というべき雰囲気が大事かなって思う場合があるような気がするし、また役者と称されるべき存在感がある場合があるような気もする。演劇の中にも、芝居の要素が違和感なく現れてくるような場面が自然に感じられるようになってきたのかも知れない。
 僕の造語で「縦の感動」「横の感動」と言うのがあるけれど、簡単にいうと「縦の感動」とは、その表現のメッセージであり、「横の感動」とはそのメッセージを観客によりよく伝えるための手段としてのエンターテインメント的な手法であり、その二つの感動が融合して初めて良い表現が完成するということなのだと考えていた。
 つまり、「演劇」も「芝居」も、「俳優」も「役者」も、その場その時によってそれぞれの雰囲気や必然性に合うように使えばいいのかなって思うような気がしてきたのだ。
 だが、まだ必ずしも自信は無く、当分の間は僕の中で、その葛藤が続くのであろうと言う予感がする。でも、なんだか素直でない、ややこしいことをひねくり回しているような気がしないでもないという……暑苦し〜い! や〜めた! 素直になろう!