演 目
寿 歌
観劇日時/13.3.26. 19:00〜20:15
劇団名/劇団 東京乾電池
作/北村想 演出/柄本明 
照明/日高勝彦 音響/原島正治 舞台監督/山地健仁
劇場名/シアターZOO

全く違った印象の舞台

 この舞台も何度観ただろうか? 一世を風靡した作品だから、御多分に漏れず、僕も多分5・6度は観ていると思う。
 その中で印象に残っているのは初期のころの加藤健一事務所の舞台であるが、とても真面目な演劇だったような記憶がある。もう一つは東京の小さな劇団で、96年12月に所見の舞台だったが、わざとらしい汚しの衣装で、論理的に作られているのが見え見えで全く魅力のない貧しい舞台だった。(『風化』109号所載)
 さらに98年11月所見で、プロジェクト・ナビの舞台「人類史のあるかぎり一つの悲劇とその再生としての物語として永遠の命をもつ。」(『第1次『観劇片々』3号』)
 そしてもう一つは旭川のアマチュァ劇団で02年9月のステージワーク公演、これは狭い会場でまったく荒涼とした野外の感じがなくて失望したのを覚えている。(『続・観劇片々』第1号)
 つまりかつて観た『寿歌』の舞台はいずれも、真面目で硬い一種の教訓劇みたいな出来であった。それから見ると今日の『寿歌』は、まるで違う戯曲のような感じで観ていた。何か本にたくさんの手を入れたのかとさえ思って観ていた。
 核戦争後の、狂ったコンピューターが打ち出す核爆発の銃撃が炸裂する荒野を、さすらう旅芸人のゲサク(=西本竜樹)とキョウコ(=角替和枝)、彼らは全く絶望的な旅の中でも少しも悲観していない。暢気に能天気にバカな掛け合いをしながらむしろこの何もない旅を、次の街を目指して楽しんでいるかのようだ。
 そこへヤスオ(=柄本明)と名乗る、これもボロを纏った旅の僧らしき人物が連れになる。
 この展開は、核戦争が意味する人類の絶滅を暗示しているから、その観方で演劇界に衝撃を与え、様々な舞台が試みられた。
 だが、今日の舞台を観て逆に衝撃的だったのは、そういう現実の中で、この3人はアッケラカンと絶望的な日々を楽しんでいる。それが人間の本質だとでも言うように……
 そしてラストは折しも降ってきた雪が放射能を含んでいるにも関わらず掌の中で溶けて行くことに命を感じて狂喜するのだ。気が付くと道連れのヤスオはいつの間にか居なくなり、降りしきる雪の中に「その日、世界は雪。地球すべて雪。この日より氷河期始まる」の字幕が映し出され、高度成長期の喜びをいっぱいに表したザ・ピーナッツの『ウナ・セラ・ディ東京』の曲が会場一杯に響き渡る。
 13年3月27日の北海道新聞に方波見康雄氏の「いのちのメッセージ」という文章の中に、「ひたひたと闇せまるとき自らの放つ真白きものあり光(松村由利子)。闇とは、人間の深い悲しみや絶望を意味する。その闇を経験したとき、人は自分の中にある何かがおのずと輝きだす。それが「光」ということになる。」と書かれていた。