演 目
亀、もしくは……
観劇日時/13.02.05. 13:00〜13:58
劇団名/ぱるふぇ
原作/カリンティ・フリジェシュ
翻訳/岩淵悦子 脚色・脚本/斎藤歩・潤色/伊東大允
演出/上西佑樹 プロデユーサー/松本智彦
劇場名/北海道教育大学岩見沢校i- HALL
出演者/上西佑樹・小林幸平・湊谷優・金内直文
劇場名/北海道教育大学岩見沢校構内の教室

演劇をやるということ

  開演前の重厚で真っ白な部屋である客席は、あっけらかんとした明るい平板な照明の、まるで会議室のような感じで、とてもこれから芝居を観るような雰囲気ではなかった。
 しかも背景に引き回されている黒いパーティションは、その一つ一つのつなぎ目が離れていて、その隙間からは背後の明かりと、行き交う準備中の人たちの気配が、すっかりと見えている。
 これから始まる芝居の中に誘う仕掛けが全く出来ていないし、その雰囲気は現実の生活そのものなのに、これから始まる舞台の物語は不気味な幻想である。そういう芝居の入り口としては雑であり無神経である。
 だが逆に考えると、これから始まる劇そのものが、目前の現実の裏側だとも言えるのかもしれないのだが、そうだとすると、そのような劇的な仕掛けが必要であり、それが欠如しているのは、やはり劇という架空の空間や時間を創造する繊細さに欠けているのだ。
 この舞台は、斎藤歩の台本をかなり改変しているのだが、それは単なる駄洒落とギャグの遊びであり、この本の持つ深遠な奥深さを掘り起こしているとは思えない。
 例えば、相手を観察する行為とは一種の監禁であり、拘束衣は文字通り肉体を拘束することであり、その他、牛への化身、亀への化身、内部から開けられない扉、ハンガーで首が左右に曲がるなどなど、すべて自由のない世界のメタファなのだが、それらがすべて表面の遊びだけになっている。
 演劇とは基本の台本である戯曲を創ることから始まるというのが僕の基本的な考えなのだが、最近いわゆる近代古典である戯曲を改めて舞台化することも一つの演劇創造の考え方かなと思っているのだが、この舞台からはすべてに亘って、それらの期待を裏切る反面教師の役割を示してくれたようだった。