演 目
りんご
観劇日時/12.10.24. 20:00〜21:25
再観劇/12.11.21.  20:00〜21:25
劇団名/シアター・ラグ・203
上演形態/水曜劇場 公演
作・演出/村松幹男 音楽/今井大蛇丸
音響オペ/瀬戸睦代 照明オペ/平井伸之 宣伝美術/久保田さゆり
出演/山岸佑樹=村松幹男 女=田中玲枝
劇場名/ラグリグラ劇場

古典的名作

 この芝居を一体何度観たことか。正確に数えたことはないけれども、おそらく約10年間に亘って2桁台の回数を観ているはずだ。
 それでも久しぶりに何年ぶりかに再演するという報を聞いたときに、ああ、またあの『りんご』に接することができるという期待感が強かった。
 そのストーリィも展開も、ほとんど知り尽くしていると思っているのに、何がそんなに引き付けるのだろうか?
今日観ていてまず感じたのは、冒頭で出てくる蜂やバッタなどの見えない虫たちの存在だ。さらに半ば頃に登場する犬と少年だ。全編がほとんど山岸氏(=村松幹男)の一人芝居だから当然この犬も少年も実際には登場しない。観客の想像によって見えてくる犬であり少年なのだ。
 蜂・バッタ・犬・少年とその大きさがだんだんと大きくなるにつれて、山岸氏の不安と恐怖と絶望の恐れが肥大してゆく。その巧みな展開に見事だなと思う。
 もちろん山岸氏のこの心境の増大による追い詰められ感がこの舞台の存在理由であろう。そしてその不安と恐怖と絶望は近代資本主義社会の犠牲者の存在であろう。そこを山岸氏個人の自己責任のように表現した、この舞台の存在理由であろう。
 そしてもう一つの面白さは、全編を通していわゆる無対象演技という、小道具を一切使用しない演技だ。もっとも最重要な小道具である虎の子の3百万円を集めた現金入りのビジネスバッグだけは本物だが、その肝心の3百万円はやはり観客の目には見えない空気だけだ。
 それも金の存在価値なんて空気みたいなものという意識かもしれないが、人間にとって空気や水の方が金よりも大事だというメッセージかもしれない。
 だが、ここで言いたいのはラストで出てくるリンゴだけが本物のリンゴなのだ。絶望の中で真っ赤な本物のリンゴを頬張った山岸氏は、齧ったリンゴを見て「歯茎から血が出てらあ」と薄く笑う。ここに山岸氏の生への意欲の再確認が見て取れて観客は僅かに救われるのだ。この本物のリンゴの使い方こそ、この作品の演劇としての最大の魅力なのだ。
 村松幹男の演技は、平常時の冷静なビジネスマンとしての態度と、特定の相手に対応するときに激高するという極端なテンションの違いに無理があるような気がしてやや抵抗感があったのだが、今観るとやはりこの方が彼のおかれた立場がはっきりとして良いのかもしれない。
 3回登場する女(=田中玲枝)は同じ役者だから当然同じ人物なのだろうがその度にキャラが180度異なる。だから山岸氏は驚き慌て警戒する。
 この女性は山岸氏の妄想の中に出てくる仮想の存在なのだろう。悪夢に魘されているわけだ。そして生きることの儚さに巻き込まれた結果、虎の子の3百万円を空中にバラ撒いてしまうのだ。
 この田中玲枝の掴み所のないような現実離れした存在が、逆に奇妙な存在感があって不思議だ。うっかりと引き込まれそうな、そういう存在なのだと思わされるのだ。
 何度観ても飽きない奇妙な魅力に満たされた1時間半の舞台を満喫したのだった。
 4週間後にもう一度観た。まるで新しい舞台を観るようだった。改まった感慨は無いのだが決して退屈や倦怠感は全くなく、噛みしめながら反芻するように見詰めていた。