演 目
看板少女
観劇日時/12.10.6. 19:00〜20:50
劇団名/しろちゃん
上演形態/2012秋公演
脚本・演出/大槻ゆり 制作/井波屋緑 助演出/鎌塚慎平 その他のスタッフ/31名
劇場名/シアターZOO

純愛物語・今昔考

 喫茶店の店先にある、どこにでもあるような緑色の黒板に書かれたお店の案内の立看板を、強引に譲って貰って自室に引きこもった学生・カヨコ(=松下ふさ子)……
 授業に出て来ない彼女・カヨコを心配して恐る恐る訪ねて来る同級生の男・マナカ(=具志堅大樹)、マナカを心配する幼馴染で同級生のカトウ(=一條博昭)。
カヨコは訪ねてきたマナカを無関心を装って追い払うために、スーパーかコンビニで強盗をして、それをDVDに録画して来てというムチャ振りをする。
 真に受けたマナカはカトウに相談し、カトウは所属する映画研究会の先輩・長老(=佐野智一)やカメラマン・アミ(=山口萌)と相談して、マナカの強盗を演出してカメラに収めカヨコに差出す。それを受けたカヨコはエスカレートして、今度は真夏の海浜の饗宴の映像記録を要求する。
 ここまでの前置きが荒唐無稽で長くて受容範囲を超えて、かなり退屈する。
 半ば過ぎに、カヨコもマナカも、自分の生きている範囲を守ることが他の生きているあらゆる生き物たちの権利を侵害しているのじゃないのかという根源的な疑問に突き当たる。
 これはこの物語の中では、いかにも唐突だけど、彼ら彼女らの若い潔い単純で純粋な思想だから、逆に観ている者にちょっと軽いショックを与える瞬間だ。
 実はカヨコは、死んだ恋人イチト(=関屋奏斗)の亡霊と暮らしていて、引きこもりになったのだった。イチトとは死んでも永久に愛すると言い交わしたために、そしてカヨコに一種の心霊現象を受け入れる才能があったために、こういう状況になったのだった。
 死んだイチトの亡霊が、カヨコの日常を見守っていたのが、この看板の陰だったことを知ったカヨコは、強引に店主にお願いしてこの看板を貰い受けて、この看板を異常に大事にしていたのだった。
 ここで前半の伏線が生きてくるのだが、マナカの異常ともいえる小心振りと、何せ話が長すぎて関心の回復がし難い。
 つまりこの物語は純愛物語で、死者のイチトとカヨコ、そしてマナカとの三角関係状態での、カヨコとマナカとのそれぞれの純愛物語なのだが、結局二人の閉塞的な心情だけの狭い物語だけに終わってしまった。
 途中でチラと現れた自分の生きている状況と他のあらゆる生きとし生きる生物たちとの関係を想うシーンが発展すればあるいは何かが表現できたのかもしれないが、それはうやむやに終わってしまい、物語は大きく広がらなかった。
 僕が思う純愛とは、たとえば1960年の『アカシアの雨が止むとき』と1973年『神田川』に象徴される、未来の無い不安で一種の絶望を孕んだ切ない純愛だ。それはそれぞれの心情と同時に、二人が生きている社会との関わりが大きく影を落とす。
 例えば弦巻楽団の『果実』は、若い男女の二人だけの個人的な純愛であり、60年70年代の社会性の強い純愛とは基本的に違うような時代性を感じて不思議な気がする。
 その他の出演者としてカトウのバイト先の店主(=井上航一)。店員(=笠井成美)、アミの友人・シノブ(=石倉百合絵)などが登場するが物語に対して余り意味がなく、大勢の劇団員たちを無理に出演させて、余計な遊びをさせているとしか思えない。