■■編集後記■■


演劇と政治               12年11月27日
横浜在住の演劇研究家・劇評家の原健太郎氏は長い間、僕の愛読者で理解者でもあるが、先日「今号(38号)の後記は、めずらしく演劇と政治がテーマでしたね。私は新劇研究の菅井幸雄が恩師なもので、この手の話は大好きですし、専門の軽演劇でも避けては通れぬテーマです。痛快です!」というお便りを戴いた。私信を公開することにいささか忸怩たるものもあるが、こういう風に考えてくださったことに何か新鮮な感じを受けるのだ。
「僕は読者のことをほとんど考えずに無責任に言いたい放題のことを書いているのですが、原さんのような方から、あのような一定の評価をして頂くと書いて良かったな、もっと言いたいことを書こうという元気が大きく出てきます。」とお返事をした。
僕は本当に無責任に、感じたままを書いたのだが、こんな直接的な芸術表現の続出に慄然とする。政治・社会の状況が劣化していることの一種の恐怖さえ感じるからなのだ。


最近のスクラップから
落語は「業」の肯定     立川談志『談志の落語』 第4巻P389  12年11月30日 
人間の業の極致まで描く落語の本質、(中略)「悪」、それも「醜悪」といってもいいくらいの情況を、笑いのうちに観客に納得させ、ある時は現実を背景にその日常の会話、行動の中に人間が頭の中で描く幻想を絞り込み、その幻想の中の人間がそこで生活をしていたり、与太郎という非生産的な行動を含めて現状を超越しているが如きの言動、そのくせ現実を認めている与太郎の凄さ。それを語る落語、つまり人間の業の肯定。
人間のあらゆる憧れと現実を落語の一つ一つに込めたその上に、落語家その人その人の人生を放り込んであるのだ。
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その後、13年1月13日の朝日新聞書評欄で、藤山直樹著『落語の国の精神分析』を評した田中優子氏が、落語とは、「不毛で反復的な人間存在を、いとおしみ、面白おかしく、愛情をこめて笑うパフォーミングアート」であるとして、「落語は業である」ことを追認していた。

甘くはないが、夢はある    曽野綾子    『悲劇喜劇』12年11月号 巻頭エッセイより抜粋
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 私は根が文字人間のせいか、芝居でもオペラでも、筋が気になってたまらない。
 有名なモーツアルトのオペラ『魔笛』も、実は筋がでたらめなので敬遠している。つまり音楽の耳の感度はあまり良くないのだ。モーツアルトと言えば、誰でも好きだと思われがちだが、たまには私のように思う人もいるらしく、或る考古学者は生まれて初めて『魔笛』を見た後で、「あれは一体、何です?」とだけ感想を洩らした。(略)
歌舞伎も同様である。どんなに名作と言われているものにも、私はついていけないものがある。筋があまりにも退屈、でたらめ、不自然だと、よく長い年月こんなつまらない芝居が上演されてきたものだ、と思う時もある。
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ここで曽野綾子さんがおっしゃっているのは、演劇は物語が中心であろうということだと思う。僕も長い間、ずっとそう思ってきた。
ところが曽野さんは、この文章の後半で、様々な例を挙げて、名優が演じる感動的なシーンを紹介し、実は演劇の魅力は「大人の情感の世界」だとおっしゃるのだ。
正にその通りであり、それが僕の言う「縦の感動」と「横の感動」であり、演劇も芝居も、その両方が相まって本当に良い舞台が出来上がるのだ。


演劇雑誌『悲劇喜劇』          2013年3月号
本号「アンケート・2012年演劇界の収獲」に大衆演劇研究家の原健太郎さんが D=演劇書(雑誌・評論)の項で、今年も「松井哲朗『続・観劇片々』34〜38(実験室シャイライサイ工房)」と紹介してくださいました。
毎年、この欄に僕の『続・観劇片々』が掲載されることが、この1年の進級試験に合格したような気がしてなりません。
まさに「サクラサク」です。新しい年に向かって新しい第一歩を踏み出す力を戴いた気持ちです。誌上を通して原さんに篤くお礼を申し上げます。


横書き表記                          13年2月28日
やってみたら面白くて、今度は特定の文字に色を付けようかなどととんでもないことを考えている。文中の特定の文章や語句のフオントを変えると言うことは経験済みだから色を変えることもありなんじゃないかなどと妄想しているのだ。
でもパソコン・プリンターの印字の色って何か深味がないし浅薄なんだよね……