映 画
太陽がいっぱい
鑑賞日時/12.9.16. 18:00〜20:00
製作年度/1960年 製作国/フランス・イタリア
製作会社/ロベール・エ・レイモン・アキム
パリタリア 他
原作/パトリシア・ハイスミス
脚本/ポール・ジェゴフ & ルネ・クレマン
監督/ルネ・クレマン 音楽/ニーノ・ロータ
撮影/アンリ・ドカエ 編集/フランソワーズ・ジャヴェ
製作/ロベール・アキム & レイモン・アキム
鑑賞場所/アートホール東洲館 アトリエ

ピカレスク小説のサスペンス

 ヨーロッパを遊び歩いている放蕩息子のフイリップ(=モーリス・ロネ)を、アメリカに住むその父親の依頼で連れ戻しに来た貧乏若者のトム(=アラン・ドロン)だったが、フイリップがトムやフイリップの恋人・マルジュ(=マリー・ラフォレ)に対する自分勝手な態度に怒って、海上で二人きりになったヨットの上で、ついにトムはフイリップを殺害して、その死体を海の中に捨てる。第一の完全犯罪である。
 トムはフイリップに成りすまし、彼の金品をすべて奪い、様々な工夫と努力を重ねて逃走生活を始める。
 うすうす事情を感じているらしいフイリップの知人が訪ねて来るのを隙を見て撲殺し、死体を泥酔者に見せかけて車に乗せ遺棄する。二人の被害者はトムからみれば百害あって一利なしの人物だし、観客からみても存在価値のない人物のような気もする。
 次々と彼に襲いかかる危機一髪を巧く潜りぬけてゆく物語は、観客にハラハラさせながらうまく魅せていく映像の展開で、まさにサスペンスそのものだ。
 さて僕がここで思ったのは、トムがなぜ悪漢(picaro ピカレスクの名詞形)になったのかという問題である。
 全ての人間には業というものを背負い込んで生まれてくるという仏教的な考え方がある。では業とは何か? 悩み・苦しみ・欲・自己本位などの、主にネガテイヴな考え方を適用されることが多いような気がする。
 つまりここでは貧乏な若者が、富という欲の業に目覚めて、ひたすら突き進む悲劇だという気がする。
 業については落語家の故・立川談志が「落語とは業の肯定である」という名言があるが、落語はその厄介な業という存在を人間の一種の弱さの突出だから、バカな奴だと笑って葬り去ろうということだろうと思われる。
 だがそれが殺人という極限になると笑っては済まされない。それは業が突出したピカレスク・ロマンとなるわけだ。
 だからピカレスク・ロマンと落語は隣同士になるんじゃないかというのが僕の考え方だ。このトムだって殺人が無ければ上手くやったなって笑って終わるのかもしれない。
 さて、この映画のタイトル「太陽がいっぱい」の意味が判らなかった。ラスト寸前のシーン、すべてが上手くいって燦々と降り注ぐ陽光の下で、祝杯を挙げる場面で、このタイトルは表現されていたのだった。
一瞬、次の場面ではトムが殺害して海に捨てたはずのフイリップのシートにくるまれた死体が売られたヨットのスクーリュに絡まって海面から出て来たのであった。
 それを見た、今はトムの恋人になった、かつてのフイリップの恋人・マルジュのけたたましい悲鳴で映画は終わるのだった……