演 目
狼王ロボ
観劇日時/12.9.8. 16:00〜17:25
劇団名/劇団千年王國
上演形態/札幌劇場祭2011大賞・オーディエンス賞受賞記念作/アーネスト・トンプソン・シートン
脚本・演出/橋口幸絵 舞台監督/佐々木祐也
舞台美術/高村由紀子 照明/秋野良太 音響/大江芳樹 音楽/福井岳郎 振付/井川真裕美 衣装/松下奈未
衣裳進行/徳村あらき 演出部/石橋玲 小道具/石川亨信 宣伝美術/若林瑞沙 
写真/原田直樹 衣装協力/菊地大樹
企画・製作/劇団千年王國
出演/ロボ=鈴木明倫 ブランカ=堤沙織 イエロー=櫻井ひろ ジャイアント=高久絢斗 シートン(他)=彦素由幸 
牧場主(他)=村上水緒 牧場主妻(他)=榮田佳子
生演奏/チャンゴラ・ケーナ=福井岳郎 ピアノ=有本紀 パーカッション=小山内嵩貴
劇場名/北海道 美唄市 美唄市民会館

新鮮だった再演の魅力

  この舞台は昨年の札幌劇場祭の大賞受賞作であるが僕には疑問があった。それはこの作品には原作があったからだ。もちろん原作があっても良いものは良い。だが原作を舞台化するには、その人たちの確個とした思いがなければならない。
 だから僕はこの作品を鑑賞する場合、あらかじめ原作を読むか、少なくても後で読んでからでないと評価できないと思っていた。もちろん予め読んでいなかったのは、単に僕の怠慢でしかないからクレームの付けようがないのだし、そもそも劇場祭というのは、演劇を宣伝する一種の啓蒙運動だから、大賞がないということは許されないのだ。と言って、この舞台を越える作品が見あたらない。良い作品が何本かはあるのだが、大賞とは言いがたい。
 去年の「全道展」という美術展では「協会賞」という最高賞が該当ナシという結果になった。それには内部で百家争鳴の議論があったと聞くが僕はナシ肯定派だ。
 ラスト・シーンで牧場主が、「北海道でも野生の狼が絶滅した」と呟く。野生と人間との共存。おそらくこれが言いいたかったんだろうとは思う。
 だが、こういう風に生の言葉で言われると、それは演劇じゃないでしょうと言わざるを得ない。実はこの件に関して肯定派と否定派があって、この台詞は不必要だという人たちと、これがテーマだろうが、生で言っちゃ壊しだという人たちに別れたのだった。
 そんな訳で、この再演はとても期待していた。今回は観ていてまるで違う作品のように感じられた。それは一体何故なんだろうか? 大賞受賞作だという概念に左右されたんだろうか? しかし実に新鮮な衝撃を受けたのだった。
 特にシートンを演じた彦素由幸には目を見張らせた。彼の今までの印象は、どちらかと言うと剽軽で軽いというイメージが強くて不安だったが、見事にそのイメージを覆し、軽快な動きだがキチンとした演技を魅せてくれた。
 ロボとの最終対決では高揚して絶叫が意味不明寸前だったから、その後の台詞に一抹の不安があったのだが、ラストに近づくと落ち着いて明確な言葉で締めくくられた。役者として当然だといえば当たり前だが、彦素の好演がこの舞台の大事な一面を支えていたとも思えるのだ。
 ラストの生の呟きが意外に嫌味には聞こえなかった。むしろ原作を読んでみようと改めて決意したのだった。
さて、やっと原作の翻訳(訳・今泉吉晴=福音館書店)を読んでみた。それらの文を引用したり要約したりしてみると、ほとんど今度の舞台の印象と違わない。
開拓による野生動物の生態系の乱れで、オオカミに代表されるアメリカ本来の自然の良さに関心を向けさせ開発しか眼中になかったアメリカの姿勢を変えさせたと評価されている。 
社会や経済の仕組みが野生動物との付き合い方を学ばせなかったという原作の視点がこの舞台の魅力なのだった。
ロボのように賢いオオカミが19世紀の終り1890年代に北アメリカ大陸の広い範囲で多数記録されている。この野獣たちは銃を持つ人間は襲わない。自分で殺した牛だけを食べる。そのころまでに野牛であるバッフアローが開拓のために、ほぼ絶滅したことと関係があるようだ。ロボには野生動物のエンジェルが着いていたという伝説もあるほどだ。
シートンが会った最後のカウボーイは「ロボよ、ブランカのために命をかけた悔いなきロボよ。おまえは愛するものと、ただ居たかっただけなのだ」と言い、シートンの自伝には「オオカミが他の生物を食べるのは当たり前なのに、なぜ悪者にされるのか。もっとおだやかにやさしく野生動物とつきあうべきだ」と書かれている。