演 目
太陽がいっぱい  何しているの? 泳いでいるのさ
観劇日時/12.7.25. 19:00〜20:00
劇団名/どくんご 
公演回数/第26番 
公演形態/サンライズホール第299回自主企画事業
構成・演出/どいの 美術・衣装・人形/uka
楽曲提供/空葉景朗 写真/epiktこうへい師
制作/空葉景朗・暗悪健太・時折旬・プラスマイナスゼロ まほ・ワタナベヨヲコ・黄色い複素平面社
出演者/2B・内田裕子・五月うか・サンチョjr.・たかはしみちこ・どいの
劇場名/あさひサンライズホール前駐車場 特設犬小屋<eント

引き締まったショウ舞台

 この駐車場広場では、その日その時、同時に「朝日アルペンスキー少年団」の活動資金造成ビアガーデンというのが開かれていて、焼き鳥・生ビールその他の屋台店が何軒も営業していて、近所の人たちが大勢、涼みがてら集めって、まるでお祭り気分だ。
 僕たちは初めそれを知らずに、ずいぶん賑やかに「どくんご」の芝居を楽しんで待っているのだなって思った。だからこちらも遠慮なしに焼き鳥・焼きそば・ビールに焼酎など買い込んで、やはり客席もほろ酔い気分で大いに盛り上がっていたのだが、開幕しても舞台に関心のない酔っ払いたちは、それぞれ勝手に外で騒いでいる。それは普通の演劇と違ってちっとも邪魔にならないどころか、逆にこの舞台を一緒に楽しんでいる騒音とも感じられる。
 舞台はいわゆる演劇ではない。ほとんど意味の見当たらない一種のショウみたいな短編の連続である。しかもそれぞれの出し物には何の関連もない。だがとてもスマートで洒脱な感じがする。
 ず、これまでの舞台のようにチープで満艦飾といった、良く言えばポップな装飾が大幅に影を潜めたことが挙げられるだろうか。
 次に、一つ一つの出し物に対応して、高さ2b×幅3bくらいの面積の布に描かれた背景幕が次々と展開することだ。しかも暖簾のように縦に割れた間から登場したり退場したり顔を出したりする。
 一つ一つの出し物を今、思い出そうとしても、中々具体的には思い出せないのだが、一人一人の個性は印象的だった。今までの役者たちにも、もちろんそれはあったのだが今年は特に印象的だった。
 そして全体の上演時間は2時間くらいなのだが、今回は引き締まったように思われる。具体的にどうとは言えないのだが、何か柔らかな感触が残った今年の舞台であった。

 
第2回目の観劇

観劇日時/12.08.01. 19:00〜21:00
劇場名/岩見沢市 駅東広場公園 特設 犬小屋<eント

積極的で明るいアナキズム

 何かを感じたのに、やっぱり消化不良を起こして、もう一度観ることにした。気になっていたのは、冒頭とラストで全員が呟くように唱えるように掛け合いで言う詩文のような台詞だ。それは同じようなフレーズが繰り返されるのだが、低く速いので中々に具体的な内容が分からなかった。
 もちろん、この劇団の芝居の内容はナンセンスで意味のない面白さが眼目なので、聞き流してもまったくの問題はなく、何となく雰囲気が感じ取られれば良いのだが、どうしても僕は具体的な意味を探りたい本能が頭をもたげる。
 例を挙げるならば、周囲から孤立してシーソーに乗った二人が空中で均衡を保っている場面がある。



 「See・Saw」とは文字通り、時間差によって主観と客観とが交互になるという暗喩かもしれない。
タイトルの『太陽がいっぱい』も、あの1960年制作、ルネ・クレマン監督、アラン・ドロン主演の名作映画のタイトルでニヒリズムとアナキズムのスレスレの哀切感いっぱいの映画で、この舞台の冒頭での音楽もニーノ・ロータ作曲の映画の主題歌がそのままに演奏される。



 様々なナンセンスっぽい掛け合いの中で、「暑い」と言えば「涼しい」と返し「寒い」と言えば「暖かい」といい、「自動車がある」と言えば「中へ入ろう」、「鍵は?」「掛けなくても良い」などと返すのが聞こえた。
 終演後に聞いたところ、これはペーター・ハントケの『左利きの女』という小説の一節だそうだ。調べてみると、それは「孤独の実験」とも評されている小説の冒頭で、女主人公の8歳の子が書いた長い詩の一節であり、長いけれども引用しよう。(池田香代子・訳)
 「『ぼくのゆめのせかい』さむくなくてあつくないといいとおもいます。あたたかいかぜがいつもふいています。でもつよいかぜもふいて、そういうときにはしゃがまなくてはなりません。じどうしゃはぴゅっとどこかへいってしまいます。いえはあかいろです。木はきんいろです。みんなはもうなんでもしっていて、べんきょうはしなくていいです。みんなはしまにすんでいます。みちにはじどうしゃがおいてあって、かぎはかかっていません。つかれたら、なかにはいれます。みんなぜんぜんつかれません。じどうしゃはだれのものでもありません。よるはずっとおきています。ねたいときにねます。あめはふりません。ともだちぜんぶのうち、いつでも四にんがいっしょにいます。しらないひとはどっかへいってしまいます。しらないものはみんな、どっかへいってしまいます。」
 僕はこの詩文にアナキズム、それも積極的で明るいアナキズムを見た。
そしてこの場面の背景の絵は、安野光雅の描いた赤い家、金色の樹木、そして青い自動車が描かれているのだ。



 最初にこの劇団を紹介するときに僕は「ジプシーのようなボヘミアン的集団」(『続・観劇片々』26号P63・09年11月刊)と書いた。だから今彼らに「アナキズム」を見るのは正に正鵠を射ていると思うのだ。
 さて始めて「どくんご」を観たのは、05年8月6日の札幌円山公園特設テント、続いてその翌日には留萌神社特設テントでの『ベビーフードの日々』だ。「フアナテックな異常舞台」と題した観劇記の要約を紹介する。

     ☆

 6人の登場人物がまだそれぞれのキャラクターをはっきりとは現さずに、別の2人のミユージシャンを加えてバンド演奏をする。タイタニック号遭難事故を鎮魂する物語のようでもある。
 極端に狭い舞台中央の床の切り穴が開かれると、床下の水の中から巨大な人形が、水浸しのまま水滴を散らして吊り上げられる。真っ白な縫いぐるみの目玉だけが象徴的なその人形の胴体には、「人間のいのち」と書かれているのは余りにも直截的。
 この人形はほとんどずっと舞台に居て、全編を通じて、まるで守護神のようでもあり、登場人物たちに、「人間のいのち」というキーワードをこれでもかこれでもかとばかりに、しつこく繰り返させて、まるで狂言回しの役割でも担っているような感じさえする存在である。
 6人の登場人物たちは、それぞれの思いを脈絡なくぶっつけまくる。それらは互いに劇的に絡み合うこともなく、全身を激しく痙攣させて転げ回り、ほとんど意味不明ながら個的な思いだけを叫び続け、なまじ具体的な言葉の意味に頼らないだけ、衝撃力は大きい。そしてところどころに吐かれるキーワードが印象に残って拡大されていくという構造になっている。こういう異常な世界を2時間半に亘って繰り広げられたが、この芝居は一体何だろうか? 
 『ベビーフードの日々』というタイトルは、これらの登場人物たちの幼児性に注目したことの現われであろうか? そしてマイナーな世界に生きる人たちの存在証明なのであろうか?(『続・観劇片々10号』05年11月刊・所載から)

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 2回目は初見の異常な刺激を受けて、09年に当地深川市での上演をお願いした。タイトルは『 ただちに犬 』。
 憑かれたように7月12日は江別市外輪船横芝生のテント劇場。続いて7月23・24日には深川市「み☆らい」駐車場・テント劇場、そして8月6日は留萌市留萌神社境内と追っかけをやってしまった。その「感覚的魅力と理性的解釈」と題した観劇記の要約である。

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 観客の反応は、大きく分けて二つあったようだ。一つは、狭い舞台から徐々に広がっていく演技エリアと、そこに繰り広げられるいわば一種の祝祭的空間がもたらす芸能の原点とも言える、素朴で生理的で強烈な魅力である。
 そして二つ目は、抽象的な物語が発するメタファーから具体的な物語を想像する、観客の論理的創造力を刺激する魅力である。無限に広がるその想像世界を観客が自分で構築する面白さであろうか……
舞台は、リアリティを超越してエネルギッシュに二時間に亙って精力的に演じられるのだ。一種、奇妙な魅力と、滑稽でバカバカしく、そして不思議に哀愁が漂う感じなのだった。
 さて、というわけで僕はどうしてもストーリィというか暗喩というか、物語原理主義者なのだ……。だから『どくんご』も、そういう観点からこの舞台を観てしまったのだった。
 (『続・観劇片々26号』09年11月刊・所載から)

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 3回目のタイトルは『ただちに犬 Bitter 』で10年8月4日に士別市・あすなろ公園・野外テント劇場、続いて8月8日は深川市・花園公園・野外テント劇場での観劇記「物語性と寓意性の希薄」と題する文からの要約。

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 観ていて、何とも昨年の焼き直しのように感じていささか手抜きのような気がするのが拭えなかった。
 さらに、最初に観た『ベビーフードの日々』もその次の『ただちに犬deluxe』にも、明らかな物語性・寓意性が強く感じられたのに、今回はそれが希薄だったことが残念であった。
 『ベビーフードの日々』には、マイナーな世界に生きる人たちの切ないアピールが強烈に感じられたし、『ただちに犬deluxe』では、責任転嫁の人たちが表わす人間の本質と、その人間たちが残す生と死との哀愁が底にあるのが感じられ、それらの2作品には『どくんご』の特異な演劇存在そのものの絶大で強力な魅力と同時に、僕の物語原理主義者をも引き付けたのだったが……
 (『続・観劇片々30号』10年12月刊・所載から)

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 そして4回目は『A Vital Sign 』で11年7月18日、札幌・円山公園・特設犬小屋<eント劇場と同じく26日の留萌市・留萌神社境内・特設犬小屋<eント劇場で、「ひっくり返したおもちゃ箱」と題する文の一部分を。
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 次々と繰り広げられる騒動、そうそれはかつての舞台もそうであったが、まさに造られた騒動なのだが、それには何らかのシンボルがあるような気がしたし、まさしく、そのシンボルを探し当てることが出来たような気がして、それが『どくんご』の真骨頂であると確信していた。
 第一『どくんご』という劇団名にも、その象徴性を探していたのだが、今となっては、劇団自体がそのことを曖昧にしているのも、逆にそういう意味性からの脱却の意志だったのかもしれない。
 それほど、今年の『どくんご』には何もない。あるのはひたすら玩具箱をひっくり返したようなナンセンスで無意味とも思える大騒ぎだけなのだ。
 だけれども、そのナンセンスな大騒ぎがちっとも退屈ではないのだ。次に何が起こるのかという不思議な期待感が続く。きっと人間の営みもそういうナンセンスな大騒ぎの連続なのかも知れないという感懐が面白い。
 だが、果たして本当に何もないのだろうか? 僕の物語原理主義は執ように何かを求める。
 やっと何かを探し当てたと思えるのは、マイノリティに対する優しさではないかと思った。力や権力などと一線を画し、もっと弱いもの、自分より下のものたちに対する心遣いのような思いが感じられるような気がした。おそらくこれは、僕が初めてこの劇団の芝居『ベビーフードの日々』を観たときに強く感じた思いが下敷きになっているのかもしれない。
 でもやっぱり余計な意味など考えないで彷徨う方がもっと良いのかも知れない。この舞台はそういう舞台なのかもしれない。だが僕の物語原理主義者としての業は、やっぱり何かを探し求めて舞台を彷徨うのだ。
 (『続・観劇片々34号』11年12月刊・所載より)

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 『観劇片々26号』に書いたように、この集団は「ジプシーのようなボヘミアン的集団」でり、これらの行動とは「反体制と自由への過程である」と言われている。さらに「ジプシーとは消極的退行でありボヘミアンとは積極的退行である」とも言われる。
 さらに近代的な積極的退行としてヒッピーを経てアングラ表現に受け継がれている。日本にも「河原乞食」というレッキとした積極的退行の歴史があるわけだ。「どくんご」とは、そういう集団=劇団なのだ。今年それを確認した。