演 目
アンダンテ・カンタービレ
観劇日時/12.7.24. 19:00〜20:30
劇団名/札幌座
公演回数/第34回
作・演出/斎藤歩 
照明プラン/熊倉英記 照明オペレーター/石橋拓実 音響/齋藤由衣 舞台スタッフ/札幌座
ピアノ伴奏/伊藤珠貴 衣装協力/石川亨信
制作/阿部雅子・横山勝俊 プロデューサー/平田修二
劇場名/シアターZOO

メタアートとしての演劇

 演劇という表現で、地方のアマチユァ合唱団の変転の経過を描きながら、表現=芸術というものの在り方を示した演劇だと思われる。つまり、表現=芸術というものを演劇で考えてみた舞台作品と言えるのではないかと思うのだ。
 北海道のある田舎の小都市にある合唱団。開拓の時代から連綿と続く伝統のある合唱団で、北海道はもちろん全国でも有数の実力のある合唱団だが、近年は団員も極端に減少し、壊滅寸前である。
 しかも当地も御多分に漏れず過疎化が進み、近隣の大きな市との合併話が急速に進んでいる。そうなるとこの小さな合唱団もその市の大きな合唱団に吸収されてしまう運命だ。
新しい市だって、二つも合唱団を保持していくだけの財政的な余裕はない。しかし合併記念の文化祭で認められれば、ロシアで開催される文化祭に招請派遣されるという名誉と実益が待っているのだ。
 そういう状況のなかの合唱団に新しい動きが生まれる。福祉士として老人のお世話に走り回る牧場の娘(=山本菜穂)が、自閉症のニートともみられそうな大男の弟(=佐藤健一)をむりやり合唱団に連れて来る。
 10年前、発表会の当日、駆け落ちして居なくなった、団長の戸部(=すがの公)と訳ありだった女(=吉田直子)が突然に離婚して帰郷し、すっかり壊滅したであろうと思っていた合唱団に戻って来る。
団長は生臭坊主だが、それなりにはっきりとした生き方をもって地域に溶け込んでいるこの地域では一種の名士だ。
 保険会社の職員である女性(=林千賀子)は、合唱団で人脈を作って保険の勧誘をすることに熱心であり、この団長と離婚女性と保険会社職員は同級生であり、ことし40歳、これを最後に合唱団を卒業する。
 41歳以上の団員が居ることは、行政の金銭的助成の対象外になり、また各種の行事・大会に出場する資格を失うのだ。だがこの理由が物語の展開の中ではっきりと説明されていないので、僕ら田舎の文化団体の当事者にとっては不可解な現象に思える。説明を聞けば納得できるのだが……
 そして、もう一つ、この合唱団に札幌から音楽指導の女性教師(=宮田圭子)が転勤してくる。彼女は当時、勤務していた高校で上達の遅い一人の男子生徒を個人指導していたところ、彼は好意を誤解して一方的に思慕し、叶わないことを知って自殺未遂事件を起こし、転勤させられたのだ。
 この合唱団には祖父であり元・町長でこの町ではただ一人駅前に胸像の立っている人の孫息子で、少々常識外れの男(=木村洋次)と、この合唱団の世話係として任命された教育委員会の職員で必要以上に低姿勢だが、いつの間にか職務を離れて合唱団の一員として努力する男(=立川佳吾)が居る。
 これらの8人の男女が演じる合唱団の成り行きが、8人それぞれの特徴を極端に誇張されたコミカルな演技によって一歩間違うと下品な表現になりかねない寸前で展開されるのだが、一番気になるのが、いわゆる芸術至上主義とも言える指導教諭のスパルタ式指導法と、彼女に対立する合唱を楽しみとして余暇を使おうとする6人の人たちと、その合間に立ってアタフタとする教育委員会の担当職員の軋轢だ。
 この部分はかなり緊迫する。以前にも何度か観劇したはずだが、こんなに迫力を感じたのは今日が初めてだ。合唱団を通して芸術=表現とは何か? それにどういう態度で立ち会うのか? という思想の根源を問う場面だ。観客もそれぞれの立場で息を飲むシーンだ。
 だが次の場面では、その葛藤のプロセスはいきなり飛ばして文化祭に向かって一致協力、練習に励む場面でカタルシスが描かれる。その間のシーンに現れる稽古場の管理人(=斎藤歩)が漏らす、この合唱団に対する素朴な感懐が観客の複雑な思いを代弁しているようだ。
 もちろん演劇は、その過程や結果を示唆するものではない。それは当然、観客の個人個人が自問自答するべきことなのだ。演劇はその事実を提示したのに過ぎない。だが余りにもすっ飛ばされて呆気にとられるような感じがしたことも事実だ。