■■編集後記■■


演劇表現のメッセージについて
 演劇だけでなくあらゆる表現には、メッセージ(縦の感動)と技術(横の感動)の両面があると言うのが僕の考えだ。そして大事なことは、メッセージがあからさまに直裁的に表現されることは、解説になり演説であり説教であり弾劾になってそれは芸術表現ではないというのが僕の考えだ。
 ところが、このところ僕のそういう考えに真っ向から対立するような作品が続出してるように思えるのだ。
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 今日の朝日新聞(12年8月14日朝刊)には、7月に開かれたフランス・アビニョン演劇祭の参加作品が、稲田信司氏により報じられていたのだが、それは衝撃的な内容である。
ギリシャのアエクサンドロス・コラスト作・演出の『危機よ、万歳』は、財政破綻を招いた無責任な政府を厳しく批判した内容、稲田氏は「無責任な政府を批判」と見出しをつけ、コラスト氏は「今は闘いのとき、政治問題に積極的に関わる(要約)」とコメントする。
ドイツのエルフリーデ・イエリネク原作、ニコラス・シュテマン演出の『商人の契約書―経済喜劇』では「私たちは投資した。私たちは無に投資した」とコーラスが響く。稲田氏の見出しは「価値を失った紙幣が舞う」であり、シュテマン氏は「芸術は洗脳と闘うための手段だ(要約)」とコメント。
 さらに金融危機をテーマにした『15%』を上演した、フランスの演出家ブリュノ・メサ氏は「金融界への異議申し立てとして、大量消費型の暮らしを見直してはどうか。金融危機と福島の原発事故とは、企業と政治権力が癒着している構図は似ている(要約)」と指摘する。
 このように問題を直接的に弾劾した前記の3作は、たまたま欧州を覆う債務危機を極端に表したとも言えるが、報告者の稲田信司氏によると、正式招待された36作品には、経済危機と環境問題を主題とする作品が目立ったと言うことだ。
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 たまたま最近に観た、富良野GROUPの『明日、悲別で』は、体制のエネルギー政策の無策に対する強烈な弾劾であり、その後に観た札幌座のイヨネスコ作、斎藤歩脚本・演出の『瀕死の王さま』は、諧謔味が強いが正にそのような直接的で過激な体制批判の物語であった。
 たまたま、この2作品とも本誌本号に紹介しているのだが、直近の経験だったのでインパクトが強いのだ。
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 同じ日の朝日新聞の別の面には、愛媛県松山東中・高校演劇部の紹介で、「『騙されていた』といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。いや現在でもすでに別の嘘によってだまされているにちがいないのである」という『伊丹万作エッセイ集』(ちくま学芸文庫2010年)の言葉を、いま創っている「戦争」から「原発」へと続く状況を表現するのに、演劇の基本概念としているということを報じていた。
 これも同じように、直裁的な弾劾の表現なのであろうか? 一番新しい演劇表現とはこのような形なのであろうか?
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 さて次に12年9月11日の朝日新聞・石飛徳樹記者のベネチアからの第69回国際映画祭の報告によると、『「愛と性」あふれたベネチア』と題して、「コンペティション部門18本の中15本が欧米系で映画の質は総じて高かったものの、愛や性といった軟派な主題が並び、社会や政治と正面から切り結ぶ硬派な姿勢は希薄だった」と報じている。
だが、最高賞の韓国キム・ギドク監督の『ピエタ』は、「借金取りに追われる債務者たちは、町工場などで地道に働く庶民たち。そこに、行き過ぎた資本主義への批判が込められている」と評し、監督は「今、世界で何が起きているかを語る映画を撮り合い」とコメントしている。
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 石飛記者は「コンペ作品に氾濫していたのが、女優の裸身と性愛の場面だった。性は、描きようによって社会批判の武器にもなるが、今回に限っては、個人の内面に力点を置いた作品が多いことの象徴となった」としている。
北野武監督の『アウトレイジ・ビヨンド』は、「ヤクザの権力闘争だが、単なるバイオレンスアクションではなく、現代の集団組織の戯画になっている」と評する。
 ペーター・ブロゼンス、ジェシカ・ウッドワース監督の『5番目の季節』は、「突然の環境異変に遭った平和な村を舞台に、善男善女が群集心理にはまった時の怖さを奇抜な映像で寓話的に語る」として印象に残ったと評している。
これらの2作品は、直接的に表現しているというよりはワンクッションを置いているのかもしれないから、僕の美学には合致するとみたいのだが……
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 続いて9月14日の石飛徳樹記者による朝日新聞の続報によると、中上健次原作『千年の悦楽』の監督・若松孝二は「映画で政治を変えられるか」という問いに対して「国家を相手に映画で闘う。今どうしてもやりたいのは、東電と本気でケンカすること」と意気軒高に答えたということだった。
 舞台と映像との違いはあるけれども、このアビニョンの演劇とベネチアの映画との根本的な差異は何なのだろうか? と思われる。
10月に入って、若松孝二監督が交通事故で亡くなった。無念極まりないのだが、交通事故というのが、どうも気になる。もしかして東電の回し者の仕業じゃないのかという、何の証拠もない妄想が捨てきれない。
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 最近、このような表現が多いということは何故なんだろうとつくづくと思わざるを得ない。端的に言って、やはり政治の貧困そのものでしかないのだろうか。