演 目
不知火の燃ゆ
観劇日時/12.6.24. 14:00〜15:30
劇団名/座・れら
作/鷲頭環 演出/戸塚直人 舞台監督/寺沢英幸
舞台美術/高田久男 照明/鈴木静悟 音響効果/西野輝明
衣装・振付/小山由美子 演出助手・音響助手/櫻井健作
手伝い/坂井克耶 どら焼き/吉田奈穂子
手話通訳/舞夢サポーターズ 
道具協力/谷藤漁業部・太田勝司 
制作/大内絵美子・青木通子・堀裕幸・鈴木喜三夫
劇場名/札幌市・東区 やまびこ座

物質文明の行き着く先への不安と警告

 劇場へ入ってまず驚いた。舞台の奥いっぱいに水俣湾の海が夕日に輝いてユラユラ揺れて居るのが見えたからだ。
 それはまさに息を飲むように見事な、熊本県水俣湾の素晴らしい風景が再現されていたのだ。
「不知火」とは、科学的には漁火の蜃気楼ではないかと言われているが、いずれにしても神秘的で美しい風景であることは、この開演前の舞台を観ただけでも充分に納得できる。
 こんな美しい風景の手前にたたずむ素朴な漁師の家屋と作業小屋、先祖伝来の、今となっては貴重な存在をこの劇場で感じられるとは! これは単なる感傷であろうか……
 この水俣病を描く芝居の企画を知ったとき即座に思ったのは、人間の果てしない欲望の追求の先にある自然環境破壊の悲劇を舞台化するのであろうと推測した。そして、そういう芝居には、得てして「善と悪との対立」を解説し説教し、悪を否定し弾劾するものが多い。そういう舞台表現は素直に観ることが出来ないことが多いのだ。それは反対するためのプロバガンダであろうという反発が先に立つ。そういう舞台をたくさん観てきた。
 だが今日の舞台はまったくそれを感じなかった。先祖代々訥々と豊かな小さな海で、静かに漁業を営むささやかな漁民の一家の、獲った魚が原因不明の奇病を引き起こすという風評被害によって漁業が出来なくなった村の日常である。
 この物語の時代では、奇病の原因は一切不明であり、得体の知れない業病に襲われているという認識だった。
 魚が獲れなくなった漁夫・勝之(登場せず)は妻子を残して出稼ぎに出ている。残ったのは妻のとし子(=竹江維子)と義父の茂三(=澤口謙)、そして長男の真一(=前田透)は漁夫が出来ないので当時日の出の勢いだった地元の化学肥料製造会社の工員としてサラリーマンになっている。会社は好景気で今日も夜勤だ。
 そこへこの家の長女で真一の妹・良子(=玉置陽香)が長崎の勤め先から4年ぶりに帰宅する。彼女の妹・千恵子(フクダトモコ)は、生まれつき原因不明の奇病で寝たきりだが、今日が千恵子12歳の誕生日であり、良子はその祝いにきたということだ。
 次女の笑子は既に3歳の頃、この子もやはりその奇病で亡くなっているのだが早速良子と真一は笑子の墓参りに行く。
 そこへ一人の若い男・滝沢正(=信山E紘希)が現れる。彼は良子が勤めていた長崎の旅館の長男で、近所を訪れたという触れ込みで良子の実家へ挨拶に来たということだ。
 だが本当は、彼の母が良子は水俣の出身だということで奇病の伝染を恐れ、彼女を解雇したことを謝り、彼の子を身籠っている良子を連れ戻しに来たのだ。だが千恵子の異常な姿を見て正は前言を翻しあたふたと辞する。だが我々は、一概に彼を責められるであろうか?
 悲劇はこの一家だけではない。近所に住む気のいい春江(=小山由美子)は、やはり奇病に憑りつかれた愛猫を探して近隣を奇声あげて探し回っている。
 誕生日のためのコメを届けに来た米屋(=西野輝明)だって恐る恐るコメを投げだし、代金を遠くに投げてもらって受け取る。奇病の伝染を怖れたのだが、その米屋さんにも家族に奇病が発生したという噂が立つ。
この人たちは勿論、この一家に繋がる人たちを巻き込んで、自分に責任のない、しかも当時は原因不明によって静かな村の人たちは悲劇の真っ只中に静かに落ち込んで行く。
 それは高度成長経済の必要悪なのであろうか……足尾銅山の事件から始まって、現在の原発事件、あえて事件と言おう、その事件まで延々と続く文明史の1ページなのだ。
 それは人類が決して風化してはいけない事件なのだ。この舞台はその風化してはいけないあの事件を、淡々と再現してみせてくれた。私たち現代人は、この大きな流れの原因を再確認する義務がある。
 脚本が良い。水俣病とかチッソ工業とかには一切触れず、淡々と怖いエピソードを何気なく繋ぎながら美しい水俣湾が暮れて行く。それは決して解説でもなく説教でもなく演説でもなく糾弾でもない。事実の切ない描写だ。だから観ていて身もだえするような切迫感が強いのだ。
 生まれつき身体が動かない3女の千恵子は、誕生日の暖かい午後の日差しの中に横たえられてじっと静かにしている。彼女はほとんど動かないし、せりふは全くない。母や兄の言葉に閉じた目を微かに見開いて反応する。
 彼女こそこの悲劇の象徴だ。いっさい口を利かず、全く動かないのに圧倒的にこの舞台を支配する。そしてカーテンコールでも兄に抱きかかえられながら全身が脱力したままなのだ。つまりこの劇は終わっても彼女の悲劇は、水俣病とそれに繋がる東日本の悲劇は、現在形なのだ!
 母・とし子は心を鬼にして良子と真一を故郷から追い出す。自分は千恵子と一緒に笑子の墓を見守りつつ、義父と共に夫の帰りを待つ心算だ。
今、思い出しながらこれを書きながら切ない嗚咽が湧きあがるのを抑えきれないのだが、ただこのシーンはいささか大悲劇調の演出過剰かなとも思えないでもない。
 人間は物質への欲望を何処まで自覚出来るのか、電力は節電だけではない。電力を使って造られるあらゆる身の回りの商品でさえ……そのことをどれだけ了解出来るのか……
その他、近所のおばさんで松永ヒサ子が出演するが、この何気ない存在が、この土地の雰囲気を良く出している。
ただ、澤口にしろ竹江や小山にしろ、なんとも都会的雰囲気が強いのが少々ながら気になった。
6月24日のインターネットによる時事通信を見て驚いた。
「環境省は水俣病特別措置法に基づく未認定患者への救済措置の申請を7月末に締め切る」。それに対して「不知火海沿岸住民健康調査実行委員会」は「被害の全容が明らかにならないまま水俣病問題を幕引きすべきではない」として集団検診を行ったところ、過去最大の1,413人が受診し同日中の集計で88,0%の受診者に症状が見られた。
さらにインターネットの投稿での「(要約)水俣市の隣町に住んでいます。重症の患者はすでに補償済です。いま騒いでいるのは生涯医療費無料を受けたい連中と、選挙の票を狙っている特定政党がバックです。昔は保守的で働き者が自慢の土地柄だったが、今は情けないくらい落ちぶれている。」という意見が紹介されていた。水俣の悲劇の複雑な様相は現在の原発に繋がりながら今も続いている。