演 目
photogenic
観劇日時/12.5.26. 19:00〜20:00
劇団名・スタッフ・キャスト/企画趣旨により非公開
上演場所/札幌市内 某Bar

何かを求める旅

 小さなスナックの空間、舞台となるのはカウンター前の間口3メートルほど、奥行きは1メートル足らずで客席は三方を囲んで20人未満、最近は劇場ともいえないようなミニ劇場が珍しくはないが、ここは今までで僕が観た中では一番小さい劇場かもしれない。
 男2人と女1人が旅をする道中の様々な心境を見せる訳だが、基本は芭蕉の『奥の細道』をラップ調で朗誦するという意表を衝く展開だ。
 彼らは行く先々で写真を撮るのだが、それはいずれも「違う」と自己否定されて捨て去られる。それを延々と何の舞台装置もない狭い空間で、まったく小道具も使わずに身体一つで移動しながら演じるのだが、またそれが一種の独特なダンスにもなっていて、世俗性の強いスナックという日常空間に、象徴的な幻想を描き出した舞台となっている。
 描かれるのは、何かを求める旅なのだが、求めようとする対象がいずれも彼らの求めるものではないという諦観というかニヒリズムに傾いていくスレスレの心情が感じられる。もしかして、これは彼らの現在の苦悩するリアルな心境なのであろうかと思われる。
『photogenic』というタイトルも、現実の自分たち自身を客観的に見ようとする意識の表れなのかもしれない。
 そして舞台は、途中から突然に『どんぐりと山猫』の物語に転換する。これは朗誦ではなく、一郎役を女優が演じ、他の役は一人の男優が次々に演じ、山猫をもう一人が演じ、ドングリたちは別の若い女性4人が演じる。
 『どんぐりと山猫』の物語は、権力と衆愚とが作る現実社会の象徴であろうが、それが必ずしも否定されているわけじゃなく、むしろ一郎が帰宅した時には、送ってくれた馬車も別当も消えて、黄金のドングリも元の天然のドングリに戻っていて、すべては一郎の夢想の中の出来事であり、一郎が夢見た理想の仏教社会が挫折した物語とも読めるようであり、この舞台への取り入れ方は新しい発見であった。宮澤賢治のある種の諧謔味も巧く取り入れられて違和感がない。
 これを観ていて僕は、初期の「早稲田小劇場」をイメージした。作り方が既成作品をコラージュする手法だし、普段は飲食の場を演じる場に使うことなど、僕は残念ながら「早稲田小劇場」の現場には立ち会えなかったけど、確かにその演劇的革新性のエネルギーを感じる。ただ日常の飲食の場を演劇上演の場にすることは最近は珍しくはない。
 さらに莫大な制作費を掛けて、ある種の虚無を描く「劇団・新幹線」の舞台のイメージともダブルのだ。
 この舞台は規模こそ、「劇団・新感線」の何百分の1かもしれないが、エンターテインメント性を充分に保ち表現されながら挫折感が強いことが同じ感性を感じさせるのだ。
既成の枠組みを大胆に利用しながら、あるいは偶然の類似かもしれないが、上手く焦点が合った舞台成果を産み出したということなのかもしれない。
彼らの旅は終わりを知らない。何処へ行くのか、何を求めているのか、おそらく果てしなく続くのであろうか? ということを暗示させて長い旅は、今日をもって一応の休止を迎えたのであろうか?