演 目
授 業
観劇日時/12.4.29.
劇団名/実験演劇集団 風蝕異人街
作/イヨネスコ 演出/こしばきこう
照明・音響・装置/こしばきこう 
舞台監督/山谷義孝 宣伝美術/MIKI 
制作スタッフ/遠藤沙織・丸山アキナ・三浦千絵
主催/実験演劇集団 風蝕異人街
出演者。教授=李ゆうか 女生徒=三木美智代
    女中=平澤朋美 もう一人の女生徒=丹羽希恵
劇場名/札幌中央区 アトリエ阿呆船

論理優先の舞台

 当日パンフレットの中で、演出のこしばは、『授業』についての三つのテーゼを提出する。
それを要約すると、一つは「作品に潜む時代の狂気性が悲劇こそ喜劇であるという逆転の不条理性=vであり、二つ目は「ことばが肉体を喚起する」であり、いま一つは「国民や民族が共有された根拠としての分かりやすさ≠ヘナショナルなものに帰属させる思考停止の大衆を作り出す」というものである。
 この三つの観点から、この舞台は創られていると考えられる。もちろん、作者の思いと無関係に観客に伝えられたものがあるかもしれないが、やはり素直にこの線に沿って観て行こうと思う。先にこの論理優先のパンフレットを読んでしまって先入観に捉われ、いささか後悔しているのだが……
  ☆☆☆☆☆☆
 ところで僕は今までに4つの『授業』を観ている。もっとも古いのは故・中村伸郎が渋谷のジャンジャンで上演じたもので、その古い記録を捜したのだが、どうしても現存しない。
 観たことは間違いないし、なにか書いたことも朧に記憶しているのだが、肝心のその記録がないのだ。たしか中村伸郎の娘さんが女生徒役で出演していた記憶もある。
 調べてみると1972年から1983年に亘って毎週金曜日に上演されていたということだ。つまり今から茫茫29年〜40年も前の、何時かに観たということだ。そして中村伸郎の次女の中村まり子さんが出演されていることも記憶に合っている。
 したがって、その古い大昔のことは一応おいといて、次は03年10月25日にシアターZOOでシアターZOOの企画上演で観ている。『東京乾電池』の舞台であり、僕は「自戒させられる演劇」という気取ったタイトルで次のように書いている。
  ☆☆☆☆☆☆
 開幕を予感させるように音楽がFOすると、メルヘンチックな大きな窓のある背景幕が見えるように、これも可愛らしい小さな緞帳がくるくると巻き上げられる。すると舞台裏から釘を打って何かを造っているような音がする。舞台上手後方には細長い大きな箱が10本ほど積んであり大きな乱暴な筆跡で32・33・34という数字が書かれている。
 入り口からブザーを鳴らして少女が訪れる。ここは私塾らしい。モーニング姿の初老の教授が、必要以上の低姿勢で揉み手をせんばかりに、初めてらしい尋ねて来た生徒である少女を歓迎する。
初対面である生徒に対して、学力テストを、まるで幼稚園児に対するような課題に答える少女を誉めまくる。2週間以内に理系・文系のあらゆる博士号を取得したいと希望する生徒に対して、教授はまず算数の講義を始める。博士号を目指している生徒に算数の科目というのも何となく可笑しいのだが……
 独特の数の概念を持つ少女の知能は、極めて常識的な教授の教え方ではとうてい理解させることは困難だ。客席の小波のような笑い声を背景に、業を煮やした教授は、算数の授業を中断して、言語学の講義に切り替える。
 一般言語学のあるテキストの一部を丸暗記したような講義に茫然とする少女。ナンセンスな言葉遊びのようなやりとりの中、ついに狂気の教授は生徒の少女を刺殺してしまう。
混乱した教授は、途中何度もいさめに入った女中を呼びつけて、二人は少女の死体を運び去り、無人の舞台には冒頭に聞こえた釘を打つ音がする。そう、この大きな細長い箱は、これまでに同じようにして殺してしまった生徒たち39人の棺桶だったのだ。
 そしてまたブザーが鳴り、新しい生徒の来訪が……
 この芝居はイギリスの劇作家ウイリー・ラッセル作『リタの教育』という芝居と好一対をなす。結末はまったく逆だが、既製の知識や教育がいかにナンセンスでバカバカしいかを、強烈に暴力的に揶揄する。途中で歯痛を起こした少女に苛立つ教授は、教授の学問や知識が、この程度の肉体の存在にいかに無力であるかを思い知らされて、殺人にまで突っ走る。
 『リタの教育』では、大衆の一人であるミーハー娘のリタが、真の学問の面白さ深さを会得しかかったときに、学会のオーソリティを超越していく痛快さであり、結末は、『授業』とは正に正反対であるが目するところは殆ど好一対を成す。
 言語学の授業で「都市」と言うべきところを「国」と言いかけて慌てて言い直すところなど、ほんとうに台詞を間違えたのか、そういう台詞なのかどっちとも取れるところにこの芝居の面白さがあると思うのだが、客席の笑いが大きく弾けないのは何故なのか? 
 あんまりこんなことを書くと、私の考えたり書いたりすることは、この教授と同じようなものではないか、自分の固定概念をひたすら守ることに汲々としているのではないか? という自戒の念が起きるという、つまりは自戒させられる芝居でもあったのだ。
  ☆☆☆☆☆☆
 そして次は「風変わりな、あるいはこれが本当の……」と題して04年7月18日にシアターZOOで、こしばきこう演出の実験演劇集団「風蝕異人街」公演である。
 開幕前、薄暗く見える舞台にはオレンジ色のテーブルと3脚の椅子、テーブルと椅子の脚は人体の手足をかたどっている。椅子の背もたれは人体の上半身の骸骨。ただし頭部はない。
 ヴィオラがメインの陰々滅々とした低いBGMが流れていると、やがて教授(西山美紀子)が能のすり足の技法でゆっくりゆっくりと登場し、舞台奥の椅子に板付く。
 まるで古代中国の貴婦人のような衣装、おすべらかしの頭髪。浴衣のような和装の女中(平澤朋美)も、やはりすり足の腰を落とした姿勢で、棺桶のフタを抱え金槌を振りかざして舞台を一周し、中央のテーブルの蝋燭に火をともす。
 端然と控える教授が薄暗い光の中に見え、突然、轟音が響くが、その音は女中が棺桶のフタを打ちつけている音だとわかる。しかしその音のリズムはリアリティがなく一種の儀式的な人工的な感じがする。
 そして登場する少女(三木美智代)は鮮やかな空色に縁取られた服と同じ色のスカーフで頭を包み、朱色のネクタイで首を飾ったセーラー服、暗黒舞踏風のねじくれて粘った肉体の動きをもって現れる。
 教授と少女は、哲学的な深く重い思想を内蔵しているように見えて、実はナンセンスとも思わせる会話を交わしながら、教授の焦慮と少女のイノセンスに分化していく。
 今日の舞台はこの過程に微妙に絡んでいく女中の存在が強く印象的であった。
 やがて少女は抹殺され、繰り返される不条理な殺人の加害者であることに恐怖する教授に、女中は「これがあれば安心です」と言って、一本の赤い鉢巻を渡す。
 その鉢巻には鈎十字(ナチスのマーク)が描いてあった。しかしこれはあまりにも露骨で説明的過ぎて、この芝居を狭い枠にはめ込みすぎるきらいがあって、いささか興を削ぐ。演出の意図が明確に、悪くいえばあまりにもあからさまに出ているのは評価できない。
 どうしてもピンとこないのは、この劇団の基本コンセプトである「言葉が肉体を喚起する」という語句の具体的な舞台成果である。今日の舞台にもそれは強く感じられたのであった。
  ☆☆☆☆☆☆
 そして至近では08年6月17日、やはり「東京乾電池」のシアターZOO提携公演で、演出は柄本明、出演は教授=柄本明、女中=西村喜代子、女学生は日替わりで、 高田恵美・阪田志麻・竹内芳織であった。「狂気の眼差し」と題して次のように書いている。
 個人教授の私塾へ一人の若い女が訪れる。短期間で複数の博士号を取得したいというバカバカしい希望だが、丁重に迎え入れる老教授。
 最初は数学ではなく算数という学科、1+1や1+2などという、一般常識ではバカにしたような講義だが、これが面白い。
 つまりこの女学生は数学の根本を理解していないのだが、教授はその説明がうまく出来ない。そのやり取りの中で、徐々に教授は焦り、女学生はますます混乱する。
 ついに諦めた教授は次に言語学の講義を始める。教授は衒学的に一方的に言語学の薀蓄を語る。それは異常としか思えないような知識の羅列である。教授はだんだん熱狂的に、というより狂的にどうでもいいような単なる知識を喋り捲る。
 女学生は突然、歯痛を起こし講義を聴いて居られなくなるのだが、教授はその訴えを、強圧的かつ狂的に無視してひたすら喋りまくる。
 女中がときどき現れて、言語学は危険だと忠告するが、教授は暴力でその忠告をも退ける。
ついに教授は、女学生を絞殺する。客席に向かってスカートを捲り上げ、のけぞって息絶える女学生。もっとも屈辱的な姿態で死体を曝す。
 女中は万事心得た態度で、教授と協力し、死体を運び出す。教授の腕にはハーケンクロイツのマークの付いた腕章が巻かれる。
 無人の舞台に、カンカンという棺に釘を打つ音が響いて、次の生徒が訪れるブザーが鳴る。そういえば開幕前にもこの釘を打つ音が響いていたのだった。
 疑問を二つ。教授をハーケンクロイツとして限定するのはどうか? もっと一般的な誰にもあることとした方が恐ろしいと思う。だがそれがナチズムを育てたとも言えるのだが、やはり限定しない方がいいと思う。
 柄本明の狂気の演技は鳥肌が立つ思いだが、ときに理由もなく笑うのが邪魔だ。意識的に怖さを増幅させる笑いではなく、何かにつまずいて思わず出た苦笑いのように感じられたのがちょっと気になった。それにしても怖い芝居だ。
  ☆☆☆☆☆☆
 こうやって過去に観た同じ舞台を振り返ってみても、今日の舞台が何かあまり新しい印象を受けなかったことが残念だった。僕の感性が鈍ったのか……
 第一の「逆転の不条理性」は、戯曲のもつ必然であり、それが的確に表現されているかどうかの問題であり、それは即に第三の「分かり易さの思考停止」に直結する。
 そして問題は第二の「言葉が肉体を喚起する」ということの具体的な結果である。言葉をどういう形で発語をすることによって肉体を動かすということなのか、それが何を意味するのか判然としない。
 何か女中役の平澤朋美の演技がそこに固執しているような気もするのだが……逆に女生徒の三木美智代は随分リアルな演技のようにも感じられる。
 面白かったのは、開幕時に背後の紗幕を通して若い女の半裸体の後ろ姿が浮き上がるシーンだ。この『授業』を知っている観客にとっては、一つ前の犠牲者であろうことは感じられる。そしてラストに別の新しい女生徒(=丹羽希恵)が無邪気に訪れることだ。こういう風に具体的に表現されるとインパクトも強い。
教授するテーブルが西洋式の棺桶になっているのも象徴的だ。だがパイプ椅子が玩具のようなのは、どういう意図なのか?
 さらにラストで、次の生徒を待つ教授と女中の二人が、でかでかとハーケンクロイツの真っ赤な腕章をし、その小さな椅子の背もたれにもハーケンクロイツの腕帯がこれ見よがしに巻かれているのもわざとらしい。
 ハーケンクロイツ・マークの登場については、オリジナルの戯曲には註書きがあり、初演では実際に表現したと全集の註に書いてあり、その詳しい内容は調べて書き写したはずだが、いまいくら探してもその記録が無いのだ。