演 目
プリンセス・チェリー
観劇日時/12.3.24. 19:30〜21:20
劇団名/ yhs
公演回数/ 27th PLAY
原作/鶴屋南北 脚本・演出/南参 
舞台監督・装置/上田知 照明/岩ヲ脩一 音響/橋本一生 衣装・メイク/水上佳奈 制作/水戸もえみ 
劇場名/札幌・琴似 コンカリ-ニョ

荒唐無稽な衝撃

 鶴屋南北の奇作と言われる歌舞伎名作『桜姫東文章』を、現代の高校に翻案したコメデイ。原作はお姫様が苦界に身を落とす悲劇だが、そこには女性の神聖と俗性の両極端が描かれていると言われている。
 そしてこれは南北の世界を見事に現代劇にした刺激的な舞台だったが、原作を知らないとおそらくダメかなとは思う。それは余りにも荒唐無稽な設定が多いので現代的な常識では着いて行けないからだ。
 例えば、冒頭、17年前にホモである高校の青年教師・清田玄(=小林エレキ)は禁断の恋人・教え子の菊知秀丸(=小原アルト)と心中する場面で、お互いに香水をスプレーし合うのだが、秀丸だけが死んで怖気着いた清田は生き残る。
 事件は秀丸の自殺で処理されて現在の清田はある高校の教頭先生なのだが、そのとき出会った高校生・姫野智恵理(=青木玖璃子)は、破産した大資産家の令嬢で生まれつき左手の拳が開かない。
 それを知った清田がふとその拳に触れると掌は開き、その時の香水スプレーが出て来て智恵理は秀丸の生まれ変わりだと知るシーン。
 現代の常識では了解出来ないが、たとえば「心中寸前に、秀丸の掌に頭文字を傷つけて、智恵理の掌にその頭文字の痣があった」とか合理的な翻案も可能だったと思われる。
 次に気になったのは智恵理の台詞だ。資産家の令嬢を表現するために、おそろしく現代離れのしたスローテンポで発声する。一種のナンスンセ・コメディとしてはありかも知れないが普通の現代劇としては強い違和感がある。
 ところが、この舞台ではその超常現象とか時代錯誤とか思われるような表現が、逆に力強い説得力を持って人間の心の闇のようなものを表すのだ。
 それは演技のリアリティが有無を言わさない牽引力を持っているからだと思われる。これがライブの絶対的で大きな魅力なのだ。この戯曲を下手に演じると評価の仕様のない舞台が出来上がる。
 どうしようもないやくざな定時制の学生・中山権助(=三戸部大峰)に魅かれていく智恵理の心情も、人間の心の闇の一つの象徴である。
 三人の関係が、校長(=重堂元樹)や同僚たち(=櫻井保英・山下カーリー、)、そして生徒たち(=曽我夕子・岡今日子・寺地ユイ)、定時制の生徒たち(=堀内タケル・能登屋駿介・竹原圭一)を巻き込んで展開される。
 ラストシーン、智恵理は権助の子でもある我が子を殺害しようとして刃物を振り上げる、この場面はむしろ爽快な印象が強い。いくら何でもと、現代の常識からは外れるのだが、僕はコクーン歌舞伎で中村福助の演じるこの場面を思い出していた。それは桜吹雪の中の櫓に登った桜姫が我が子に刃を向ける、美しいけど凄惨で哀切なシーンであった。
 98年5月「ク・ナウカ」が、東京の目白細川邸庭園という野外で上演した『桜姫東文章』の記録を紹介する。
 「(要約)やんごとなき姫君が運命の変転に翻弄されて開き直り、ついにわが子を手に掛けるところまで行って、己の苦渋に満ちた刷新の生を歩く決意をする。
 この児とは自分の女の性の悪しき結晶であり、高貴な家系の実家の乗っ取りを企んだ反逆人の男が父親であるという複雑怪奇な運命の母子の関係である。
 桜姫(=美加里)の最後の一言「新しい世界に向かって生きていく」つまり「運命の操り手から解放されて自力で生きる」ということか。」
 続いて05年6月、コクーン歌舞伎のパンフレット解説を紹介する。
 「(要約)もっとも聖なる存在であるお姫様(中村福助)が、もっとも淫蕩な娼婦でもあるという二重性がしたたかな存在感となっている」「権助(中村橋之助)という野性的な小悪党で図太い無法ぶりは痛快だが、その権助さえ最後は桜姫のパワーに負けてしまう」「執念の高僧・清玄(橋之助)との三角関係」
 「誰しもの人間の中にある本性的な部分(塚田圭一氏)」
 これらが、『桜姫』の原点であろうと思う。