演 目
阿呆船
観劇日時/12.2.18. 19:00〜20:10
劇団名/風蝕異人街
原作/寺山修司 
構成・演出・照明・音響・美術/こしば きこう
スタッフ/遠藤沙織
制作/実験演劇集団 風蝕異人街
劇場名/札幌・中央区 阿呆船


 様々な負の人間たちが「阿呆船」という船で大航海へと出帆だというキャッチコピーを読むと、これは世界をはじめ、国家やあらゆる人間の集団の行く末を暗示しているのだろうと思うのは当然であろう。
だが、構成・演出のこしば氏は、当日パンフで、「何が現実で何が夢かを判断しようとした時点で観ている人は負けです。阿呆船の乗客たちは二項対立では語れない言葉の担い手ですから」と観客に挑戦するが、「現実」を否定し「夢」を予告するという対立ならば、この舞台はそういう判断は出来ないとなるのだ。一方では、「この物語に起承転結はなく、すべて意味のない決して物語をつむぐことのない不条理な言葉たちと俳優たちの肉体が舞台上で踊り出すのです。そして純粋で正直者の「阿呆」と忌み嫌われているものだけが、現代の「ノアの方舟」である「阿呆船」に乗ることが出来るのです。この「阿呆船」の行先は一体どこなのでしょうか? 実は私もまだ知らされていないのです」、といっている意味とは何なのだろうか?
 一見、矛盾しているような述懐ではないのか? しかし、このこしば氏の矛盾にこそ、この舞台のカギがある。
 開演前の30分ほど、被虐趣味のシーンが延々と演じられ、しかもこれはいかにも演技臭い代物でかなり白けるのだが、開演冒頭の裁判劇は胡散臭い形式論として大袈裟に世界を裁く無力感が滲む。
 そして圧倒的な男女13人によるダンスは迫力あるが、僕がいつも思うようにこれが大舞台で通用するのだろうか? という疑問がある。だが一方、こういう密閉されたミニ舞台だからこそ、その魅力が大きいのだから、そこを強調するという意味も大きいのかもしれない。
 ラストで真っ暗な中、マッチを擦って仄かな炎を使う演技は余り使いすぎると衝撃力が薄くなる。おそらく寺山の有名な短歌の引用だろうが使いすぎは良くない。