映 画
霧の中の風景
観劇日時/12.1.21. 18:00〜20:30
1998年 ギリシャ・フランス・イタリア合作映画
監督/テオ・アンゲロプロス 製作/ステファン・ソルラ
脚本/テオ・アンゲロプロス&タナシス・ヴァルニティノス トニーノ・グエッラ
音楽/エレニ・カラインドルー  撮影/ヨルゴス・アルヴァニティス
劇場名/アートホール東洲館

少女の夢幻彷徨

 いきなり暗闇の中で少女・ヴーラ(=タニア・パライオログウ)の「怖いの?」と囁く声。弟・アレクサンドロス(=ミカリス・ゼーケ)の「怖くない」と応える声。ギリシャのある町の夜の駅前繁華街に手を携えてたたずむ12歳の姉と5歳の弟。微かに聞こえる救急車のサイレンの悲鳴のような通奏低音……続くタイトルロールに被さる、哀切でしかも甘いメロディ……
 この二つの冒頭シーンで、この映画は象徴的に表された。
 母子家庭に育った姉弟は、なぜかまだ見ぬ父親に無性に会いたい。その父親はドイツにいると根拠なく信じている。顔も見たこともなく声も聞いたこともなく、ましてや存在さえ確認できない幻の父親に、母親にも内緒で会いに無銭の旅に出るのだ。列車のデッキで仮眠するヴーラは父親に向けて仮想の手紙を読み続ける。
 この時点ですでにこの旅は現実離れをしている。回想場面で二人は、寝物語に父が話してくれていたという聖書の一節「はじめは混沌とした闇に、光が射してくる」という説話を繰り返し語り重ねる。
 二人は無銭乗車で、ある寂れた田舎の駅で降ろされ伯父に会うが伯父は、姉弟は私生児で父は不明であると言う。
 このシーンを始めに何度か現れる、無機質に荒廃した風景は、高度成長の時代が終焉に向かう時代背景を描くシーンだ。
二人は警察署に保護されるが、その時、雪が降ってくる。署員たちが雪に気をとられている隙に、二人は逃亡する。
 そのとき、署の外には降りしきる雪の中で市民たちはストップモーションになっていた。ただ、完全に動かないわけじゃない、多少顔を動かしたり手を傾けたりする。
 これは一種の映像美なのだが、それは結果論であって、この映像は、彼女たちの心境を通して観客が共有する心象風景なのだ。だから美しいのだが観ていて切ないのだ。
 宛のない無銭旅行の途中で旅芸人一座の青年・オレステス(=ストラトス・ジョルジョグロウ)が現れる。お互いに好意を持った三人は、しかし離ればなれになってしまう。少女は無口であり、ほとんど言葉を交わさないし表情も変えない。少年も言葉を出さないのだが無邪気そうだ。
 現実味のない物語であることを百も承知の上で、そろそろ少年も腹が減ったころではないのかとチラと意識の底に浮かんだころ、少年は、とある食堂に入り込んでサンドイッチを要求する。僕の思いが当たって思わず笑ってしまったが、店主は金の無いことを知り、「働けば賃金を払う、只では食えない」と言い、まったく労働代価としては意味のないテーブル上の空き瓶回収をさせてサンドイッチを与える。
 少女は、この旅芸人の青年に初恋を感じる。だが少女にはその自分の感情が理解できない。海岸での彼の優しさに、フト外れて一人水に戯れる……彼は「初めは誰でもそうだよ」と何度も何度も繰り返して優しく抱きしめる。
 旅芸人の一座は時代に背かれて没落しつつある。彼は徴兵されるために二人と別れなければならない。だが依然として彼女は無言を貫く。
 また二人になった少女は、弟の寝ている間に、ヒッチハイクの運転手に陵辱される。世の中を知った少女は汽車賃を得るために別の若い男に身を売ろうとするのだが、若い兵士は札を投げ捨てるようにして去る。
 少女は12歳なのに少女離れのした妖艶な大人の美貌の持ち主であり、ヒッチハイクの初老のオヤジが欲情する気持ちは悪であることを承知の上で理解できるし、金を投げ捨てるように去った若い兵士の気持ちも分かる感じがするのだが、ここにも象徴的な女の運命さえ見られるのだ。様々な世の中がシンボリックに描かれる。
 最後にドイツとの国境線で旅券を持たない二人は逃げて辿り着いた国境の川でボートに乗って脱出する。闇の中で警備隊に銃撃されたところで終わるのかなと思ったら、二人は霧の中で対岸のドイツにいた。「はじめに闇の混沌があり、やがて光が射す」というナレーションが流れる。
 すべてのシーンは幻想的で象徴的でありながらリアリティがあり、すべての物語を通して人生を予見させるような感じがする。完成された映画という気がした。