後 記

読者の反響
 最近、特に音楽家や画家の方たちなど別のジャンルの表現者からの読後感
を多く戴いているような気がします。主に表現を巡っての当事者の方たちの
共感や疑問などですが、僕の文章が何らかの刺激になっているとすれば良い
意味での僕のテンションも上がります。とても感謝しています。

雑誌『悲劇喜劇』掲載
 今年も早川書房発行の演劇専門雑誌『悲劇喜劇』3月号の「特集 2011
年演劇界の収穫」という記事のD部門=演劇書(雑誌・評論など)に、原健
太郎さんの執筆で『続・観劇片々』30〜33号が紹介されました。
 今年も進級試験に合格したような気持ちです。卒業は永遠に無いけれども、
一年ごとの試験に合格するような勉強を再確認しています。

文学に正解はない
 芥川賞審査員の「文学に正解はない」という意見を読んだ。まさにその通
りだと思う。文学に限らず、すべての表現には当然、正解はない。僕の正解
とは何か、そして僕の正解に近づくことを求めて呻吟するのが表現かもしれ
ない。

歌劇の劇性
 (前略)美しく切ない情感を引き出した。言葉がほぼ完全に聴き取れたの
も、歌手陣の明瞭な発声と、指揮さばきのたまものだ。(朝日新聞12年2月
28日ステージ欄オペラ「沈黙」関正喜)
 僕の歌劇の劇性の疑問に対する一つの解答である。

異常な動作
 劇作家で演出家の岡田利規氏が主宰する「劇団チェルフィッチェ」の演技
で、非日常的な本人の言うヘンテコな身振りについて僕は、「言葉を補助す
べきコミュニケーションの拒否を意味する動き」であり、形は非常に似てい
るが小佐部明広氏の「劇団アトリエ」の身体動作は、全く逆に「集団を維持
するためのツールとしての会話であり動きである」と規定した。(「続・観
劇片々」第34号25ページ)
 さらに僕は、『蒸発』(11年11月上演)で見せた「劇団intro」の作・演出
イトウワカナの、「この動きは一見、先行の二つの試みに似ているが内容は
違う。これは、チェルフイッチェの「コミユニケーション拒否」とも、小佐
部明広の「共同体維持のための共通行動」とも違う、異常反応による無意
味で瞬間的な顫動のような動物的身体行動である。=vと規定した。
 ところが、朝日新聞12年2月15日『彩・美・風』の岡田利規氏本人の記述
によると「普通≠ニいうことを捉えようとしたことの予期せぬ結果である」
「ちょっと観察してみると日常において人は、案外と意味のない動きをして
いるものです。」そして「普通≠ネものが、舞台上に載せられると、ただ
それだけのことなのになんだかヘンテコ≠ネものに見えてくる。これは、
かなり面白いことだと思いませんか」となってしまう。
 何か妙にはぐらかされたような、本当にそうなのか?という疑問に捉われ
た。僕の考えすぎなのか……