後 記

「物語原理主義」について
 僕は文中に良く「自分は物語原理主義者である」と書く。文字通り、演劇と
限らず全ての表現には、物語というかメッセージが必要だと言う視点が僕の立
場であるということだ。
 このことは、あのロマンチックな虚構を描いて一見、物語無視ともみえる、
唐十郎が言っている役者への注文「それは何のメタファーなのだ?」という唐
本人の言葉(映画『シアトリカル』08年5月30日所見で、詳細は『続・観劇片
々』21号08年8月刊行)にも明白だ。唐十郎はどんな展開にも、それが根底に
もっている意味が表すものを求めているわけなのだ。
 この映画を観てから僕は、すべての演劇にとって物語は根幹なんだとあらた
めて確信している。
 もちろん、新しい演劇には物語を無視した肉体表現や現実再現のみの舞台も
あるが、それさえにも、唐十郎の言うメタファーを感じようとするのだ。
 そこで翻ってもう一度、「原理主義」の語意について『広辞苑』を読んでみ
た。
 「キリスト教で、聖書は無謬であり、天地創造などの根本教義は文字通り真
実であると信じ、神学・信仰に関わる近代主義や合理主義を批判・排斥しよう
とする立場」と記述されている。
 この解説だと誤った教義でも無謬を信じるという、間違いをも可とするのか
ということになり、さらにまた最近、宗教の原理主義者が暴力による自己主張
という悪い面が表面化し、したがって原理主義という立場が悪くなっているの
も事実だが、僕は常に客観的な視点は保ちつつも、演劇にはメタファーという
物語が必要だと信じる原理主義で判断する立場は大切だと思っている。
 ところがごく最近、僕の信念に反するような文章に出会った。かの芥川龍之
介が1927年の北海道講演旅行で語ったというその文章を紹介しよう。

  北海道新聞11年7月29日夕刊・所載
☆「文芸の本質は筋の面白さでも『話』でもなく、作品に裏付けられた作者の
人生観・社会観でもなく、それは表現だ」
                                                27年5月17日 函館にて

☆「文字で書かれていることが、皆、文学です」「芸術は内容には関しない。
鼠が描かれているから、馬を描いたものより偉大でないということはない。人
間を描いているからカッパの絵より立派なんてことはない」
                                                27年5月20日 小樽にて
                                                
 これをどう理解するのかが、現在の僕の難題なのだ。


演劇祭について
 各地で演劇祭が盛んである。それぞれの発案者が、それぞれのポリシーに基
づいて様々な企画で演劇祭という催しを賑やかに開催している。
 正直言って僕はもともと、そういう権威的な匂いが感じられるものに興味は
なく、むしろ反感さえもっていたのだ。
 だが、札幌劇場祭のメンバーに誘われた時には無料で観られるというスケベ
根性で参加したところ、一番難しかったのは様々な想いで創っている様々な様
式の舞台作品を、同じ一つの基準で評価することの不可能さであった。
 たとえば悪い言葉でいうと、演劇を道具として交友や親睦や教育や宣伝に使
っている舞台と純粋に演劇そのものを表現しよとする舞台とをどうやって優劣
を付けるのかという問題。
 もちろん演劇を道具に使うこと自体を否定するわけじゃない。それはそれで
立派に存在の価値はあるとは思うのだが……
 その他にも演劇に対する考え方の違う舞台を同じ基準で評価することの虚し
さなど。
 演劇祭はあらゆる演劇・舞台パフォーマンスなどの活性化のための一種の宣
伝的なお祭りだとは思うのだが、映画祭のようにジャンル別などの考え方は出
来ないのだろうかと思う。


天才の地獄
 井上ひさしの前のご夫人で、優れた協働者でもあった西舘好子さんが、井上
ひさし没後に書かれた著書『表裏井上ひさし協奏曲』を読んだ。
 A5 185ページの大著は一気に読破された。二人の出会いから亡くなるまで
が詳細に描かれている。基本は井上ひさしの作品がどれだけ素晴らしいかとい
う視点で、それははっきりとしている。
 だが一方、その作品を創るために井上ひさしが、どれだけ自分を偽り周りを
苦しめその度に後悔し、だがさらに自己嫌悪と地獄の底に堕ちて行かざるを得
なかったかという、人間としての悲劇が物凄い行状として描かれている。
 その挙句、作品にも、その裏の仕掛けや苦しい心情の吐露があるのではない
のかとさえ疑う。その怖しい深読み。一般に言われている悪妻説に僕も侵され
ていたのか?
 井上ひさしの、自分の才能を追い込んでゆく地獄の苦行が息苦しく、それは
本当なのか? というほどの人間とは思えないほどの業の深さを感じる。
 娘・都さんの、すべてを達観して父母に対する思いを述べた後記を読んで少
し救われるのだ。