演目 ハシビロコウのように
観劇日時/11.8.20.
劇団名/イナダ組
作・演出/イナダ 舞台装置/FUKUDA舞台
照明/高橋正和 音響/奥山奈々 舞台デザイン/野村たけし
舞台監督/坂本由希子 小道具/中村ひさえ
衣装/稲村みゆき・澤田未来
制作/岡田まゆみ・田中絵梨・小柳由美子
プロデューサー/小室明子
企画・制作/コンカリーニョ・劇団イナダ組
劇場名/コンカリーニョ

閉鎖の中の焦慮感
 再々演に当たって作者で演出のイナダ氏が当日パンフで、その想いをいろい
ろと語っている。でも僕は一切その想いを無視して、ひたすらこの芝居を初め
て観たような感覚で、この舞台そのものを楽しみたいと思っている。
 ハシビロコウというものの名前をこの芝居で初めて知ったので調べてみると、
嘴広鸛と書く鳥の名で「水辺で長時間動かずに餌の魚を待ち伏せる(広辞苑)」
とある。何か、この芝居に掛ける作者の思いを直裁に表しているようなタイト
ルだ。
 さて話は、6年も付き合った、それなりに欠点のない男・西尾康平(=太田
真介)との挙式を3日後に控えた29歳の女・月山あかね(=上總真奈)が、突
然自室に引きこもった。
 心配した二人の親友が駆けつける。小原薫(=イトウワカナ)は、二度目の
結婚で5歳年下の男と、それなりに暮らしている。
 もう一人の守口佐恵子(=福地美乃)は、大家族の中で下女の如く、それで
もそれなりに納得して暮らしているのだ。
 あかねは、女子大生の妹・めぐみ(=山崎亜莉紗)と二人暮らしだ。妹も二
人の親友たちと一緒に姉のことが心配だ。
 実はあかねは数日前に、昔付き合っていた先輩の男・坂安岐亮(=黒岩孝康)
が訪ねて来たのに会って風呂まで使わせていたのだった。
 坂安岐は自由人で、30も半ばを過ぎて、せっかく流行っていた古着店を閉め、
半年バイトをやり後の半年は世界中をさまよっているという男だ。
 あかねは何かが吹っ切れない。そこへめぐみの友達・里沙(=森田亜樹)が
訪ねてくる。里沙は同人誌でそこそこ人気のある女子大生だ。
 3人とはジェネレーション・ギャップもあって、まったく話が通じない。
つまり簡単に言えば、この登場人物は7人とも何かを待っているという状況な
のだ。平凡な主婦の佐恵子も薫も現在に満足しているわけじゃない。
 そしてその象徴として、あかねの存在があるのだと思われる。さらにあかね
の存在は、現在の閉塞感に鬱々とする人々の思いをも象徴させているのではな
いのかと深読みさせられる。
 面白かったのは、福地美乃とイトウワカナの友人二人が、まるで良く聞く大
阪おばちゃんのように機関銃のような早口で自分勝手なおシャベリを延々と展
開することだ。それも何度も何度も展開され、しかも次々と話題が変転する。
そのリアルで滑稽なシーンはそれだけ観ても値のあるほど、最近傑出した見も
のであった。
 でもそれも考えてみれば、現実のハシビロコウとは見た目は違うのかも知れ
ないが、心の中は、じっと何かを待っている一種の焦慮感とも見てとれる哀愁
さえも感じられるのだ。
 西尾康平だって、6年も待って妥協したような気にも見えるし、坂安岐亮も、
流行っていた古着屋を閉めたのも、時代の流れに逆らえなく早々と諦めた結果
だ。前途に希望はない。
 妹のめぐみもその友人の理沙も大学の卒業を控えて前途洋洋とは全く言えな
い。何とか自力で開拓して行くしかない。それは逆に言えば素晴らしい選択な
のかも知れないが、リスクも大きい。そこに本当に積極的な選択があったのだ
ろうか。
 周りの状況をみて、その選択にならざるを得なかったようなそんな虚無的な
感じもする。
 すべて現実の閉塞社会がもたらす、人々の焦慮感があふれ出ているような舞
台であったのだが、はたしてそれは僕だけの思い込み過ぎであろうか?
 台詞の中に、とても虚無的な語句があったのを思い出す。一つは「……愛は
なくても情の部分で人と繋がれる……」そしてもう一つは「……人を褒める言
葉がないと思ったらとりあえず『優しいね』と褒める。優しさがそんなに褒め
ることなのか?」。この二つは、今思い出して書いているので正確ではないか
もしれないのだが、僕にはとても投げやりな感情として受け止められた。これ
も僕が偏見で観ていたからだろうか?